ニューヨーク・タイムズ紙の「今年行くべき場所」 注目されない「富山」は残念だから価値がある

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金沢への観光客に素通りされる

 アメリカの有力紙「ニューヨーク・タイムズ」が選んだ「2025年に行くべき52カ所」。そのなかに入った日本の都市は、驚いたことに富山県富山市でした(大阪市も選ばれています)。つい「驚いたことに」と書いてしまったのも、富山市は筆者にとって「ダメな都市」だと認識されていたからなのですが、もしかすると、できが悪いからこそかわいいという側面があるのかもしれません。

 選定にあたっては、2024年正月の能登半島地震とその後の豪雨のことも、おそらく考慮されたのでしょう。能登半島地震では、能登の入口に位置する富山市も被害を受けています。しかし、より大きな被害を受けた能登半島のために支援も行っています。それにしては、顧みられていない感があります。

 北陸新幹線の乗降客数は金沢に遠くおよびません。とりわけ増加した外国人観光客のほとんどは、富山を素通りして金沢に向かいます。昨年11月に金沢に行った際も、金沢城や兼六園は観光客でごった返していて、その半数近くが欧米人のように見えました。一方、富山では外国人をあまり見かけないのはもちろん、歩いている人の数が金沢とくらべるのも空しいくらい少なかったです。

 ニューヨーク・タイムズ紙は富山市を「混雑を避けながら文化的な感動とおいしい料理を楽しめる」町として評価しています。たしかに混雑していません。穴場であることにまちがいはありません。では、「穴場」でなにを味わえばいいのか、考えてみましょう。

市街地の99.5%が焼失した

 日本の都道府県庁所在地は城下町であることが多いですが、富山市も例外ではありません。先ほど金沢を引き合いに出しましたが、富山は歴史的にも金沢との関係が濃厚で、金沢より格下の位置づけでした。

 富山城が整備されたのは寛永16年(1639)、金沢城を居城とする加賀100万石の前田家3代目、前田利常が幕府に許可を得て、次男の利次に越中(富山県)10万石の領土を分け与えてからです。つまり、富山藩は金沢藩の支藩で、富山城は金沢城の支城だったのです。

 しかも、城の歴史にはかなりの困難がともないました。富山城が本格的に整備されたのは万治4年(1661)以降ですが、延宝3年(1675)を皮切りに、正徳4年(1714)、天保2年(1831)と3度にわたって大規模な火災に見舞われます。そして明治6年(1873)に明治政府によって廃城とされると、ほとんどの建物は取り壊され、堀は埋められ、土塁は崩されてしまいました。

 また、江戸時代には城の北側を巨大河川の神通川が流れ、水堀の役割を果たしていましたが、いまは松川という小さな川が流れているだけです。明治30年代に、城のほうに大きく屈曲して流れていた神通川を、ほぼ直線で結ぶ工事が行われ、かつての河川敷を整備して市街地が拡大されたのです。

 富山城址公園の北側を歩いても、歴史の香りが感じられない理由のひとつは、そこにあります。でも、それだけではありません。金沢が日本の主要都市としては奇跡的に、米軍の空襲に遭わなかったのと対照的に、富山は徹底的にやられました。昭和20年(1945)8月2日の空襲で、市街地の99・5%が焼失するという壊滅的な被害を受けたのです。これほどの被害に遭った都市は、富山を除けば東京のほか、原爆を落とされた広島や長崎ぐらいしかありません。

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