【べらぼう】親に売られ過酷な折檻の日々… 小指を切って客に贈る吉原女郎の異常な感覚
天井から吊るし竹棒で打つ
それでは忘八たちは、自分たちが儲けるための道具である女郎たちを、どうあつかったのか。主人に忠実であるようにしつけたのだが、それは犬のしつけなどよりよほど過酷なものだった。仮病をつかってサボったり、大事な客を怒らせ逃してしまったりした女郎はもちろんのこと、稼げない女郎や店の取り決めに従わない女郎も「しつけ」の対象になった。要は折檻である。
11代将軍家斉の時代についての種々の状況が詳述された筆者不明の随筆『世事見聞録』によれば、竹棒で激しく打つ、食事をあたえない、雪隠(便所)の場所の清掃ばかりをさせる、などは一般的だった。絶食の反対に腹一杯の状態からさらに食べさせる満腹責めや、衣服を取り去った状態で火熨斗(底が滑らかな金属の容器に炭火を入れ、底を当てて衣服のしわを伸ばす、アイロンに近い道具)を全身に当てることも行われたようだ。
なかでも忘八たちが嫌ったのは女郎の逃亡だった。吉原は入口が大門ひとつしかなく、門の脇にある会所では、女郎たちの逃亡に厳しい目を光らせていた。それ以外の場所はといえば、周囲は蔦重の時代には幅2間(約3.6メートル)ほどの「お歯黒どぶ」と呼ばれた堀(初期には5間=約9メートルあった)で囲まれ、さらに忍び返しがついた高い塀がめぐっていた。逃亡するのは非常に困難だった。
それでも、前述したような過酷な状況に生きる女郎の逃亡は後を絶たなかった。たいていは女郎と恋愛関係に陥った「間夫」という男性の助けを借りていて、変装して大門から抜け出るのでなければ、塀を超え、お歯黒どぶを渡るのだが、滅多に成功しなかったようだ。
女郎に逃げられたら、忘八としては経営上の打撃であり、ほかの女郎にしめしがつかない。だから、このときの「ぶりぶり」と呼ばれた折檻は苛烈をきわめた。女郎の衣服を取り去り猿ぐつわを口にかませ、両手両足を縛って天井から吊るし、竹棒で何度もたたいたのである。女郎をしつけその勤めを監督する「遣手」と呼ばれる女性が行ったほか、忘八がみずから竹棒を手にとることもあったようだ。
小指を切って客に贈る女郎
ほかにも過酷な折檻としては、手足を縛った女郎の前で植物をいぶし、うちわで煙を向ける「いぶし攻め」、やぶ蚊がたくさんいる部屋に押し込められる「やぶ蚊責め」をはじめ、さまざまな折檻があったと伝わる。
こうした状況に置かれ、屈折していたことと切り離せないと思うが、彼女たちの客をつなぎとめるための「愛情表現」には、現代の感覚からすると、あまりにもおぞましいものがある。その代表例が「指切り」で、文字どおりに自分の小指を切り離して相手にあげるのである。もっとも、客がそれを受け入れたからこそ行われたことで、「指切りげんまん」もそこに由来するといわれるのだが。
とくに江戸中期までは吉原でふつうに行われていたようで、そうやって指を贈られた男性は、女郎の心意気に感動したそうだ。指を切る際は、切った弾みで指が飛んでいかないように、あらかじめ障子やふすまを閉めておき、指に剃刀などを当て、鉄製の急須など重いものを振り下ろしたという。それを贈られた客は、袱紗などに包んで持ち歩いたともいうから、なんとも想像を絶する世界である。
だが、遊びに精通した客は、そんな野暮なことはさせないという記述も、当時の文献にはあるようだ。また、指全体を切るとあとも大変なので、徐々に指の表面を削ぐという方法が一般化したという。また、なかには他人に頼んで刑場から死人の指を調達し、それを客に贈る女郎、宋細工で指に見せかけたものを贈る女郎もいたとか。
いずれにしても吉原とは、不幸な女郎たちが苦界を必死に生きることから生まれる倒錯が日常化した、あまりに特別な世界だった。
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