【べらぼう】親に売られ過酷な折檻の日々… 小指を切って客に贈る吉原女郎の異常な感覚

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親に売られた少女たちの「苦界」

 いまのところNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」は、主として江戸浅草の浅草寺の北方にあった吉原(台東区千束)を舞台に話が進んでいる。主人公の蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)がそこで生まれ育ったばかりか、事業も起こしたのだから当然だが、吉原とはいうでもなく特殊な場所だった。

 田んぼのなかに堀と塀で仕切られた東西327メートル、南北約245メートル、総面積2万760坪ほど、すなわち東京ドーム2つ分ほどのエリアに1万人前後が暮らし、多いときでそのうちの5,000人近くが女郎だった、という町である。しかも、女郎たちはよほどのことがないかぎり、エリア外に出ることもままならなかった。

 吉原には教養豊かな人たちが数多く集まり、文化の発信地という面があったのは事実である。また、女郎たちもその衣裳や髪型が注目され、絵師たちもこぞってその姿を描いたので、若い女性のファッションリーダーのような役割を負っていた。しかし、そういう面があったにしても、吉原は多くの女郎たちにとって「苦界」だった。

 実際、吉原の女郎たちの大半は親に売られていた。江戸幕府は人身売買を禁止していたため、表向きはみな「奉公」していることになっていたが、現実には貧しい親たちの手で「身売り」されていた。当時、女性を女郎屋などに売る「女衒」という職業があり、彼らは各地を渡り歩いては貧しい親を口説いて、その娘を女郎屋などに売り飛ばしたのである。

 その結果、親の権利はみな養父、すなわち買い主に渡され、病気になろうと変死しようと実の親は抗議できなかった。実際、性病への感染率はきわめて高く、若年死は当たり前だった。「べらぼう」でも、死んだ女郎が服も着せられずに捨てられる場面や、梅毒に感染した女郎が狭い部屋に雑魚寝させられ苦しんでいる場面が映し出されたが、あれは吉原の日常といっても過言ではなかった。

徳を捨てた「忘八」の商売道具

 女郎屋の楼主(主人)、それに客を女郎屋に案内する引手茶屋の主人たちは「忘八」と呼ばれた。これは「仁、義、礼、智、孝、貞、忠、信」の八徳を失った者という意味の蔑称である。彼らは貧しい親がやむにやまれず売った娘たちを、情に流されることなく徹底的に商品としてあつかったからだが、そのように徳を捨てて冷酷になれないかぎり、女郎を使っての商売などできないのが現実だった。

「べらぼう」では、駿河屋市右衛門(高橋克実)が経営する引手茶屋の2階に、吉原の主人たちが集まって会合を開いている場面がよく登場する。まさに彼らが忘八と呼ばれた人々で、気をつけて聞いていると時々、彼らは自分たちを卑下して「忘八」と呼んでいる。そうした認識は幕府にもあり、安永元年(1772)に女郎屋が訴えられた際、幕府は女郎屋の楼主は「四民の下」、すなわち士農工商の身分より下だと申し渡している。

 女郎たちはそんな「忘八」の下で自由を奪われたうえで性的に搾取されていた。基本的には女郎は親の借金の担保であり、それを働いて返すのが義務だった。その年季奉公の期間は10年まで認められていた。現実には、吉原には5歳から10歳程度の子供が売られることも多かったが、その年齢では客はとれない。したがって15歳から17歳になり、客をとれるようになってからの10年が年季だった。

 このため吉原では「苦界十年」といわれたのだが、現実には27歳ぐらいで年季が明ける前に命を落とす例は非常に多かった。「べらぼう」の第5回「蔦(つた)に唐丸因果の蔓(つる)」(2月2日放送)では、面倒を見ていた唐丸という少年(渡邉斗翔)が姿をくらまして、彼が死んでいるかもしれないと嘆く蔦重に、幼馴染の花魁の花の井(小芝風花)はこう言った。「まことがわからないなら、できるだけ楽しいことを考える。それがわっちらの流儀だろ」。

 このように、せめて楽しいことを考えていなければ日々を乗り越えられないのが、吉原の女郎たちの現実だった。

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