「空港で呼び止める人がいた」「迎えのタクシーが遅刻して」…82年の日航機「逆噴射」事故、生と死を分けた運命の糸
あの事故は私の運命を大きく変えた
日航幹部と嘱託医ら6人は、機長を搭乗させ続けていたことなどから業務上過失致死傷容疑で書類送検された。1984年11月には不起訴処分となったが、1985年10月に遺族会が申し立てた検察審査会での審査が行われた。6人のうち5人が「起訴相当」、1人が「不起訴不当」と議決された結果を受け、東京地検は再捜査に着手したが、1987年に再び不起訴処分となった。
5人の客室乗務員は1984年7月までに結婚などで全員が退職。機長を止めようとした副機長は1983年10月に復帰し、子会社への出向や転職を経て、航空業界に身を置き続けた。
事故機に搭乗予定だった知人を別の飛行機に誘った元代議士の太田誠一氏は、2024年12月4日、東京都内の病院で死去。79歳だった。
予備校生だった朱雀氏は、事故によるケガの治療で志望校を受験できず、地元・福岡の医学部に進んだ。現在は太宰府市で医院を経営しており、2023年には事故当日の朱雀さんを軸にしたドキュメンタリー番組が放送されている。朱雀氏は先に再掲した記事での取材に際し、こう語っていた。
「もともと機械系の学科を志望していたので、あの事故がなければ医学部に入っていなかったかもしれない。その意味で、あの日航機事故は私の運命を大きく変えたと思います」
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「変だなと思いましたね」――順調だったフライトに異変が生じたのは、着陸間際のことだった。第1回【「ヘドロを大量に飲んで嘔吐」「至る所からうめき声がした」…82年の羽田沖墜落事故、生存者が語った凄惨な情景】では、乗客が覚えた違和感や墜落の瞬間が生々しく語られている。
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