盟友の逝去で止まっていた新アルバム制作に着手中…「鈴木慶一」が紡いできた音楽の絆
第1回【日本の音楽シーンを大きく動かした「母」の存在…あがた森魚も紹介 鈴木慶一の音楽人生】のつづき
ロックバンド「はちみつぱい」を経て、鈴木慶一(73)が弟の博文と共に「ムーンライダーズ」を結成したのは1975年のことだった。翌年にアルバム「火の玉ボーイ」を発売してメジャーデビューを果たしたあとは、何度かの活動休止を経て、今年で結成50周年を迎える。そのほかにも数多くのユニットで活動してきた鈴木には、「世に遺さなくては」と考えている作品があるという。
(全2回の第2回)
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【写真】母の膝上で笑う少年時代からムーンライダーズ時代、高橋幸宏とのユニット…写真で振り返る「鈴木慶一」の音楽人生
高橋幸宏との思い出
参加してきたユニットの中でも、高橋幸宏とのコンビで1981年に結成した「THE BEATNIKS」は、2018年まで断続的に活動を続けた。当時すでに「イエロー・マジック・オーケストラ」(Y.M.O.)で人気を博し、「ライディーン」の作曲者でもあった高橋は、鈴木に言わせれば「ポップ・アイコン」。互いのセンスがシンクロしてのコンビ結成だった。
「ムーンライダーズを始めて数年経ち、ちょうど次のレコード会社が決まってない時でね。幸宏の方から話があって。Y.M.O.でどんな曲を作っているかは知っていたけど、レコーディングでは緊張しましたよ。最初にちゃんと会ったのはラジオ番組。そこで互いに持って行ったレコードをかけると、そのセンスがばっちり合っていた。それに冗談のセンスも。これは重要なことなんですよ(笑)。Y.M.O.ブームの中で、幸宏はソロでもない、Y.M.Oでもないことをやりたかったんだと思う」
その前段として、1978年に “その年を代表するアルバム選ぶ”雑誌企画で鈴木が選んだのは、高橋のアルバム「サラヴァ!」だった。(ちなみにこの企画では近田春夫&ハルヲフォンの「電撃的東京」も挙げている)。さらに「酒と音楽には密接な関係がある」が持論の鈴木はたびたびバーに通っていたが、たまに行く店で高橋の姿を時折見かけていた。二人のセンスは、早い時期から音楽がかかるバーで接近遭遇していたのだ。
海外レコーディングでの経験
数々のレコーディングで印象に残っているのは、元妻・鈴木さえ子のアルバム「スタジオ・ロマンチスト」収録の数曲を、英国のアンディ・パートリッジにプロデュースしてもらったことだという。
「その印象は感覚的なもので、なかなか言葉には表しにくいけどね。スタジオにいる人が全員音楽に詳しいのは当たり前。『ここのところ、誰々の~~風な感じで行こう』なんて言葉はすぐにみんな通じる。アプローチには時間をかけるものの、決定は恐ろしく早い。サウンドの構築の仕方に思うところ、考えさせられるところがたくさんあった」
その後も海外へは幾度となく出掛け、全てが面白い経験だったという。
「たまたまかもしれないけれど。面白い人、興味のある人を集められたのも大きかったかもしれないね」
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