日本の音楽シーンを大きく動かした「母」の存在…あがた森魚も紹介 鈴木慶一の音楽人生

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演劇部で養った「音を作る」能力

 ところが父の影響もあってか、高校では演劇部に入った。ただし演者ではなく音響効果のスタッフとして活躍。これが後の音楽プロデューサーとしての仕事に大いに役立ったという。

「いろんな音を用意してテープレコーダーをいじっていました。それが後に『こういう音を作りたい』と考える際に、どういうことをすればいいか、アイデアが具現化されることに。手探りで作業していた経験が後に生きた。まあそんな作業ばかりやっていたから、外にも出ないオタクでしたよ」

 高校卒業が迫るにつれ、大学は行かなくてもいいと思うようになった。

「映画『イージー・ライダー』を見て、ドロップアウトの人生もいいな、なんて考えて。母親も『大学の受験料払うぐらいならアンプでも買って、授業料を払うぐらいなら楽器を買った方がいい』と」

 母はそうは言いつつも、自宅でギターを弾いてばかりいる息子を見かねたのだろう。パート先の証券会社でアルバイトをしていた男性を鈴木に紹介した。休み時間には非常階段でずっとギターを弾いていた彼に「うちの息子もギターをやってるんだけど、ずっと家で弾いているから遊びに来たら?」と声を掛けたのだという。

 その人物が、後のあがた森魚だった。

「あがた君がうちに来て、目の前で歌ったんだ。『一緒に音楽やろうよ』って誘われ、5時間も6時間も互いに歌い合った。あがた君が歌うと、『こういう曲がある』と私が歌う。あがた君のギターに合わせてピアノを弾く。そんなセッションでした」

 毎日AMやFENの音楽番組を聴いてばかりいたから音楽に詳しい自信はあった。だが、あがたの知識には自信を打ち砕かれたりもしたという。

「今と違い、自分で動かないと情報が入ってこない時代でした。その後、音楽仲間が出来て一緒に毎日のように入り浸ったロック喫茶ではこのベースがいい、ドラムのフィルインがいい、なんて他の人と話していましたね」

はちみつぱい結成

 高3となった1969年、テレビの深夜番組で「頭脳警察」を見た。日本語でロックを演奏するその姿に惹かれる半面、「これは大変だ」と焦りも感じた。急がなくてはと日本語の歌詞を作り出し、はっぴいえんどの影響もあり、あがたらとのちの「はちみつぱい」となるバンドを結成。東京・渋谷の「B.Y.G」でのライブに月1回程度出演するようになった。ミュージシャンとしてのスタートである。

 はちみつぱいに続き、1976年には弟の鈴木博文らと「ムーンライダーズ」でレコードデビューした。その音楽的センスによって、ほかのアーティストらとのつながりは、さらに広がっていった。

「プロになったといっても、自分たちにプロ意識はあまりなかった。自分で考えながらいろいろと動いていた頃ですが、今振り返っても、(その後の素晴らしいミュージシャンらとの出会いは)とっても運がよかったと思うよ」

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 才能が才能を呼んだ。第2回【盟友の逝去で止まっていた新アルバム制作に着手中…「鈴木慶一」が紡いできた音楽の絆】では、高橋幸宏とのTHE BEATNIKSや原田知世のアルバムプロデュースなどについて語っている。

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