日本の音楽シーンを大きく動かした「母」の存在…あがた森魚も紹介 鈴木慶一の音楽人生
鈴木慶一(73)は長い音楽人生を通じて多くのミュージシャンと知己を得てきたが、もともとは自宅でひとりギターを弾くばかりの少年だった。ギターを彼に与え、1970年の「はちみつぱい」結成につながるあがた森魚を紹介した母は、日本の音楽シーンを大きく変えた存在といえる。
(全2回の第1回)
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【写真】母の膝上で笑う少年時代からムーンライダーズ時代、高橋幸宏とのユニット…写真で振り返る「鈴木慶一」の音楽人生
ラジオから三橋美智也、SP盤でジャズやクラシック
鈴木が育ったのは両親の他、父の弟妹と暮らす大家族。幼少時代は、学生だった叔父・叔母の持つSP盤レコードを蓄音機で聴き、ジャズやダンスミュージック、クラシックなどに触れた。ラジオから流れてくる音楽にも興味を持った。
「ラジオはタンスの上にあり、子どもには手が届かず、チューニングは変えられません。その頃の曲では三橋美智也さんが印象に残っているね。もう少し後になると、日本語でカバーされた洋楽も流れてきて、さらに小学6年頃にはザ・ビートルズや英米バンドの曲が流れるようになった。テレビも早い時期からあり、音楽番組を見るようになりました」
中学入学を前に、ベンチャーズやアストロノウツといったインストゥルメンタルバンドのエレキギターに夢中になった。父で俳優だった鈴木昭生の率いていた劇団は毎夏、伊豆半島西部で合宿を行っていた。それに同行していた数年間、伊豆の海岸で繰り広げられる“光景”に、音楽や文化の変遷を感じていたという。
「小2の頃から泳ぎに行っていた海岸沿いでは、何年かするとエレキバンドが合宿に来て練習するようになり……。テレビの音楽番組が増えるのと同様に、不良も増えていきました(笑)」
母が買ってくれたエレキギターに続き、12弦のアコギも購入
母自身は少ししかピアノを弾けなかったが、自宅にピアノがあり、ピアノ教室のために場所を貸し出していた。
「小学校の頃、母に『あんたは耳がいいね』と言われたことがあります。母は音楽をやらなかったけど、興味はあったと思います。その後もありとあらゆるところで、音楽面でお袋に助けられることになったんです」
そんな母は、中学に進学した際にエレキギターを買い与えてくれた。音楽好きな血が息子にも流れていたか、鈴木自身は登校前と帰宅後にエレキギターを何時間も弾いた。その後、またまた母に12弦のアコースティックギターも買って貰い、音楽的興味はベンチャーズよりもビートルズやフォーク……ミュージック、ヴォーカルのあるものに向いた。当時、中学の各クラスにインストバンドが1組ずついたという。
「ビートルズが大ブームだった時期だと言われていますが、中学でビートルズ好きは、クラスで2~3人ぐらい。そもそもニュースで知る限り、ビートルズは女性がきゃあきゃあ騒ぐ感じ。思春期でしたから、そんなものなら聞かなくていいかな、という思いもありました。でも1年後には夢中になったけどね」
音楽雑誌を読み漁り、写真が多かった「ミュージック・ライフ」よりも、歌詞やコード進行を追究し、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を酷評するような「ティーンビート」を好んで読んだ。ザ・バーズやヤードバーズ、キンクスなどの英米ロックやフォークロックのうち、聴いて気になった曲はシングル盤を購入。さらに気に入ったものはアルバムまで買い求め、音楽道を進んでいた。
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