「みんな薄情なんだなあ」――藤子不二雄Aさんが泣いたフリをした日
漫画家「藤子不二雄」が藤子・F・不二雄さんと藤子不二雄Aさん(1934~2022年)の共同ペンネームであることは誰もが知るところだろう。「藤子不二雄」といえば、少年漫画のイメージが強いが、藤子Aさんは『忍者ハットリくん』『怪物くん』のほかにも、『笑ゥせぇるすまん』などダークな大人の漫画でも知られている。
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そんな藤子Aさんだが、作家・五木寛之さん(92)の友人としての素顔はとてもチャーミングだったようだ。最新刊『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)から抜粋・紹介する。
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漫画界の巨匠から滲み出ていた人徳
藤子不二雄Aさんは2022年4月に亡くなった。藤子Aさんというより、本名の安孫子素雄(あびこ・もとお)さんとしてつきあった記憶がよみがえってくる。残念でならない。
藤子Aさんは富山の人だった。氷見(ひみ)という魚のめっぽう旨い町の出身である。いちど氷見を訪れたとき、町の中央に大きな漫画の主人公の像がそびえていて、びっくりしたことがある。
藤子Aさんと私の交流は、もっぱら麻雀(マージャン)の場だった。赤坂に作家を中心とした溜まり場があり、いろんな小説家や画家、写真家、ジャーナリストが日夜そこに集っていたのだ。
そのなかに藤子Aさんもいた。
私たちは藤子Aさんの本名の安孫子さんとしてつき合っていた。藤子Aさんは卓を囲んでいて自然と座が和む人徳の持主だった。ときどきチョンボをやらかしても、誰も文句を言わなかったのは、人徳と言うべきだろう。
作家、編集者のグループと共に、スコットランドのゴルフ場を周遊するという贅沢(ぜいたく)な旅行に、藤子Aさんが同行したときの話である。
最後の日程を終えて、一行がバスでヒースロー空港にむかっている途中、突然、藤子Aさんが、首をかしげて、
「あれ? おかしいなあ」
と言い出した。
「どうしたんだい」
と、仲間の一人がきくと、藤子Aさんは頭をかいて、
「パスポートをホテルに置いてきちゃったみたいだ」
と言う。ぜんぜん落着いた口調だった。
忘れ物をしたことより置いてけぼりが悲しい人
「ホテルだって? どこにあずけたんだい」
空港にはまもなく到着するというタイミングだ。一同唖然(あぜん)として顔を見合わせる。
「どうやら貴重品入れの金庫にしまい込んだ気がする」
「おい、おい、冗談じゃないぜ」
と、頭を抱えた仲間の一人が、
「いまさら引き返してたら飛行機の時間にまにあわない。どうする?」
当の藤子Aさんが一向にあわてた風情がないのがおもしろかった。
一同、がやがやと対策を協議するが、当の藤子Aさんはぜんぜん困惑した風情がない。
「仕方がない。安孫子さんだけ後の飛行機に乗ってもらおう。いまさら全員キャンセルってわけにもいかないし」
「ぼくだけ置いていくのかい」
と、藤子Aさんは情けなさそうな声を出した。まるで幼稚園の児童のような表情だった。
「仕方がないだろ。あんたが不注意だからこんなことになったんだ」
と、リーダー格の作家が言った。藤子Aさんは、ちょっとおどけた口調で、
「みんな薄情なんだなあ」
と、涙をふくしぐさをしてみせた。藤子Aさんは、とても人恋しい人なんだな、とそのとき思った。もうずいぶん昔のことになる。合掌。
※本記事は、五木寛之『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)を一部抜粋したものです。