「嘘をつくなら壮大な嘘をつこう」 作家・五木寛之を口説いた有名映画監督の素顔

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 日本テレビのドラマ「セクシー田中さん」を巡り、原作者が自ら命を絶った出来事は、1年ほどがたった今も記憶に新しい。

 出版作品の映像化にあたっては、これまでも原作者の意向が反映されないことで生じた問題が、たびたび取り沙汰されてきた。作家・五木寛之さん(92)も原作が映画化される際には、大島渚(なぎさ)、浦山桐郎(きりお)といった映画監督としばしば喧嘩腰の激論になったそうだ。

 深作欣二監督(1930~2003年)は、五木さんの『戒厳令(かいげんれい)の夜』を撮りたかったと話していたという。五木さんの最新刊『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)から一部を抜粋、加筆する。

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原作者と監督の徹夜麻雀

 京都でのある一夜、徹夜麻雀(マージャン)の後に、深作さんがふともらした「嘘をつくなら壮大な嘘をつこう」というひと言が妙に頭に残っている。

 そのとき深作さんと会ったのは、私の『戒厳令の夜』を映像化する可能性について語り合うためだった。その長編は結局、深作さんではない監督の手で映像化されたのだが、深作さんは最後まで自分が撮りたかったと言っていた。

「仁義なき戦い」その他、数々の問題作を手がけた深作さんは、一面、政治・国際問題にも深い関心をもつ論客だった。

 最近では原作者と監督が徹夜で麻雀をするような風景は、ほとんど見られなくなったようである。しかるべきエイジェントが間にはいって、ビジネスとして仕事がまとまる例が多いらしい。それはそれで創作活動の近代化と言えるとは思うのだが、昭和生まれの私としてはどこか一抹(いちまつ)の淋(さび)しさがないわけではない。

 大島渚、浦山桐郎、などの映画監督との対話は、しばしば、というよりほとんど喧嘩腰の激論にはしることが多かった。

 その点、深作さんは相手の話をじっくり聞いた後で、論理的に反論を展開する。アウトローの映画作品を手がけて、どこか怖そうなイメージのある深作さんだが、むしろ女性的といっていい繊細さを内に秘めている感じがした。

深作さんのひそかな願望

 ブラッキーな世界に身をおきながら、深作さんは常にどこかで、ロマンチックな恋物語や、世界規模の壮大なフィクションを撮る願望を心に秘めていたのだろう。彼は『戒厳令の夜』に触れて、こんなことも書いている。

〈(前略)少年期の敗戦、世界と日本への再認識、インターナショナル革命への憧憬(しょうけい)と挫折、敗戦国民としてのレジスタンス運動への関心、更にさかのぼってスペイン人民戦線への関心、日本の政治へのドス黒い怒りと絶望、人間への不信とマシンへの屈折した愛情、アジェンデ政権崩壊への危機感と焦燥(しょうそう)感――それらはまさしく、昭和ヒトケタの世代に属する者たちが、戦後三十年の歩みの中で、否応なく対応してきたものなのだ。(後略)〉

「仁義なき戦い」は、たしかに深作的世界の一面ではあるが、それがすべてではない。

 深作さんの麻雀は、私などとは比較にならないほど理論的で細心だった。作家と監督の資質のちがいを、そのときつくづく感じさせられたものだ。

 いまはもう、壮大な嘘、などという言葉は流行(はや)らないだろう。世界の指導者たちは壮大な嘘をつくより、目先の公約を実行することに汲々(きゅうきゅう)としているかのようだ。トランプ大統領でさえも、壮大な嘘はつかない。現実的な対策を次々にツイートするだけである。

 しかし、私たちの心の底には、ある種、危険な願望もひそんでいる。欺(だま)されるなら、いっそ大きな嘘に、というニヒルな願望である。深作さんの心に秘めた壮大な嘘とは、はたしてどんな嘘だったのだろうか。

※本記事は、五木寛之『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)を一部抜粋したものです。

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