昭和天皇のすい臓がんはなぜ「慢性すい炎」と発表されたのか 衝撃の舞台裏に迫る
嘔吐の間隔が狭まっていた
とても元気そうに見えたが、病魔が陛下に忍び寄ってくる。天皇ご夫妻は、毎夏、栃木県の那須御用邸で2カ月ほど過ごす。この年も7月15日に到着。それから間もない19日午前、御用邸の玄関前で突然、崩れるようにして倒れた。寝室に運び込まれるまで1分間ほど意識を失う。「胸に軽い不快を感じた」と訴えたので心電図がとられたが異常はなく、体温、脈拍などにも異常は認められなかった。瞬間的に具合が悪くなり、すぐに平常に戻るというのが、陛下の症状の特徴だった。このため、侍医団では「脳貧血症状」として、とりたてて騒ぐことではないと判断したのである。
ところが、全国戦没者追悼式に出席のため、8月15日の前後に那須と東京を往復したが、那須に戻ってから事態が一気に深刻化する。同23日にお腹が張り嘔吐、29日にも同じ症状で吐いた。9月3日から夜になると不調を訴え、「吐きそうだが吐けない。苦しんだ後にもどす」ということが3日連続した。これまでは吐いてもすぐに回復したし、嘔吐の間隔が何日かあったが、今回は間隔が明らかに狭まっている。陛下は同11日に帰京するので、13日に宮内庁病院で検査が行われることが決まった。とはいえ、「深刻な事態だが、一刻を争う緊急事態ではない」という侍医団の見立てで、静養中の緊急検査は回避された。
帰京前の9月8日、御用邸内で宮内記者会は陛下とお会いした。30人ほどの記者が横一列に並ぶ中、筆者は記者会の幹事として一歩前に出て、陛下にあいさつし、質問した。来月に迫った沖縄訪問を念頭に、「今年の秋はいろいろとお忙しくなると思いますが、ご体調はいかがでしょうか」と尋ねると、陛下は、「幸い私も元気にしていますので、安心してもらいたい」と即答された。顔につやがなく、緊張している様子は気になったが、陛下が当時、連日のように嘔吐し、その2週間後には手術を受けるほど体調を崩しているとは、感じることができなかった。
なぜ体調について正確でないご発言?
陛下はさる4月の天皇誕生日の記者会見で、「念願の沖縄訪問が実現したら、戦没者の霊を慰め、長年、県民が味わってきた苦労をねぎらいたい」と抱負を語られていた。沖縄は太平洋戦争で日本側に約19万人の犠牲者を出している。戦後は米国統治が27年続き、大きな犠牲を強いられてきた県民の一部には「反皇室」の複雑な感情もある。本土復帰3年後の1975年、初めて訪問した皇太子夫妻(現上皇夫妻)が「皇室の訪沖」に反対する過激派に火炎瓶を投げつけられた。こうして、陛下は長い間、沖縄訪問の機会に恵まれなかった。国体の全国一巡の最後となる沖縄国体(秋季)への出席で、ようやくその機会を得て、4泊5日の滞在日程も内定したのだった。
陛下は現地になお、「天皇の訪問反対」の動きがあるのは承知していたはずだ。それでも、多くの人が亡くなった南部戦跡に行って慰霊し、大戦の戦禍から立ち直った県民をねぎらうことが、「最後の務め」と思い定めていた。なぜ陛下は体調について、正確でないことを記者側に言ったのか、筆者は後に、高木侍医長に聞いてみたことがある。侍医長はこう答えた。
「ご自分が、体調が悪いと言ったら、国民が心配するとお考えになったのだ。それに、ぜひとも沖縄に行かねばならぬと思っていたから、体調が悪いとは言いたくなかったのではないか。国民の迷惑になる言動は取りたくないというのは御上(おかみ・陛下)の一貫した姿勢で、深い配慮があってのご発言だから、うそを言ったとは取らないでほしい」
[2/5ページ]