昭和天皇のすい臓がんはなぜ「慢性すい炎」と発表されたのか 衝撃の舞台裏に迫る

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 昭和62年9月、嘔吐を繰り返していた天皇は開腹手術を受けた。「玉体にメス」は前例がない。結果、体調不良の原因は「すい臓がん」と判明するが、「慢性すい炎」と発表されたのはなぜか。昭和100年にあたる今年、当時の皇室担当記者・斉藤勝久氏が崩御に至る舞台裏を明かす。

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 昭和天皇の晩年のご闘病には前兆があった。86歳の誕生日を祝う昭和62年(1987年)4月29日、皇居で行われていた「宴会の儀」での出来事である。陛下が祝宴の最中に突然、食事をもどし、気付いた皇太子妃(現上皇后)と常陸宮妃華子さまに両脇を支えられるようにして退席されたのだ。

 この日は一般参賀もあり、在位61年の陛下は午前中に3回、宮殿のベランダに立つ。ひざや腰を痛めていた皇后さま(香淳皇后)も2回、参加された。宴会の儀は一般参賀のお出ましが終わった後、午後零時50分から、皇族方、中曽根首相夫妻、国会議員ら400人余りが出席して、最も広い「豊明殿」で開かれた。それから25分後に陛下が突然、席を離れたのだった。すぐに侍医の拝診を受けたが、「何でもないよ」と言っておられた。陛下は事前に気分が悪いことを何も言わなかったのである。

 車イスで宮殿内の執務室がある表御座所に移り、1時間余り、昼寝をした。血圧などは正常値となり、住まいの吹上御所に戻る。侍医の診断では「かぜ気味で、お疲れによる吐き気」とされたが、翌日には普通の食事を取り、すぐにいつも通りの生活に戻っている。

 この2カ月前に4歳下の弟、高松宮さまが肺がんで亡くなり、34年ぶりに皇族の葬儀が執り行われていた。また、この年の秋には天皇として初めての沖縄訪問も控えており、当時の陛下はいろいろお考えになることが多く、お疲れだったのは間違いない。以前にもかぜをひいて吐いたことがあるので、重大事と受け止められず、精密検査は行われなかった。

騒動の中で重要な人事が

 ただ、天皇誕生日の騒動の中で、重要な人事が決まっていた。28年前から4年間、侍医を務めた消化器系統専門の内科医、高木顕(あきら)氏が、かつて陛下にお仕えした者としてこの日、皇居に来ていた。自衛隊中央病院長などを歴任し、退職後は民間医療機関の所長をしていたが、3月に侍医長を打診されていた。騒ぎの中で徳川義寛侍従長が高木氏を呼び寄せ、6月1日付で侍医長になるよう伝える。発令日まで突然、指定されて、前任の外科専門の侍医長に代わり、昭和天皇の最後をみとる「陛下の主治医」高木侍医長が誕生したのである。

 新聞記者だった筆者は、皇室を担当する宮内記者会に前年秋から所属していた。「陛下の嘔吐」はその後のご病状のキーワードになるが、天皇誕生日の嘔吐を「重大事ではないにしても、気になること」と受け止める社は多かった。例年、陛下は年に2回、全国植樹祭と国体に出席のため地方を訪問する。この年の5月には佐賀県で植樹祭が行われ、陛下は3泊4日の旅をした。これまでの同行取材は各社1人だったが、今回はほとんどの社が不測の事態に備えて複数にしている。筆者も同行したが、近くで拝見する陛下はお年のわりに足取りもしっかりしており、秋の沖縄訪問に耐えられる体力があると思えた。

 翌6月には滞在先の伊豆・下田の須崎御用邸から、前年11月の三原山噴火で約1万人の島民や観光客の「全島避難」となった伊豆大島を、初めてヘリコプターでお見舞い訪問している。陛下は帰島した島民を励ましたいと希望し、この被災地訪問が実現した。下田までの帰路は「全島避難の苦労を少しでも共にしたい」と海上ルートを選んだ。

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