殿堂入り「満票」ではなかったイチロー メディア、チームメイトとの“冷戦”を振り返る
大挙押し寄せた日本メディアとの間につくった“イチロー・ルール”
日米通算4,367安打を誇り、1月に“日米同時殿堂入り”を果たしたイチロー氏(マリナーズ球団会長付特別補佐兼インストラクター)だが、いずれも満票を逃したことが物議を醸した。米国では「イチローに投票しなかった記者は誰だ? 自首しろ」などと“犯人探し”を求める声まで上がった。それと関係があるのかどうかはわからないが、イチロー氏は現役時代、メディアや時にはチームメートと“冷戦”を繰り広げた時期があった。
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日本でも米国でも、殿堂入り選手は記者投票によって選出される。資格取得1年目にして“ダブル殿堂入り”を達成したイチロー氏。1月16日に発表された日本の殿堂入りに関しては、投票資格のある野球取材15年以上の記者が投票用紙に最大7人の選手の名前を記入することができたが、349人のうち26人が不世出の打者の名前を書かず(得票率92.6%)、史上初の満票選出はならなかった。
同21日(日本時間22日)発表の米殿堂入りはもっと際どかった。全米野球記者協会(BBWAA)に10年以上在籍する記者に投票資格が与えられたが、イチロー氏に投票しなかった記者は394人中わずか1人(得票率99.7%)。かつてヤンキースの守護神を務めたマリアノ・リベラ氏以来史上2人目、野手では初の満票選出を逃し、全米に衝撃が広がった。
イチロー氏とメディアの関係が特に話題となったのは、メジャー1年目の2001年だった。アリゾナ州ピオリアで行われたマリナーズの春季キャンプにも、日本からメディアが大挙して押し寄せた。ところが、イチロー氏はほどなくして、メディアの取材に“マイルール”を設ける。特別な会見以外は基本的に、顔見知りの記者数人(1~3人)だけが日本の全メディアの質問をまとめてイチロー氏と対面し、答えを持ち帰る形を取ることになった。
「メジャーリーグでは日本のプロ野球と違い、試合終了後、選手のロッカールームに入室して取材することが許されています。とはいえ、日本のスポーツ紙、一般紙、夕刊紙、テレビ、ラジオ、雑誌に至る記者・取材クルーが殺到することは全くの想定外でした。実は、米国でメジャーリーグを扱うメディアは、日本ほど多くありません。特にシアトルという地方都市を本拠地とするマリナーズの場合は普段、地元紙4~5社の担当記者が1人ずつ張りついている程度でした」(当時を知る在米ライター)
2年後ヤンキース入りした松井秀喜氏の他山の石に
キャンプイン当初、想像を絶する数の日本のメディアがロッカールームに流れ込む事態に、マリナーズのチームメートは仰天し、不快感を露わにする選手もいた。そうでなくとも異国から来た新参者だったイチロー氏も、神経を尖らせた。日本のメディアの数の多さは、野茂英雄氏がドジャース入りした1995年頃から、米国では奇異な目で見られていたが、登板が週に1度程度に限られている投手だったため、それほどの騒ぎにはならなかった。イチロー氏は日本人野手初のメジャーリーガーで毎日プレーし、同じ年にメッツ入りした新庄剛志氏と比べても、日本での実績と注目度が桁違いだった。こうした経緯で生まれたのが“イチロー・ルール”だったわけだ。
「いま振り返れば、無理もない背景があったわけですが、日本から高い経費を使って取材に来ているのに、イチロー氏とろくに直接対面すらできない報道陣のストレスは相当のもので、反発も当然ありました。また、当時のイチロー氏は『僕は一流の野球選手でありたいと思っているので、メディアの皆さんにも一流であることを求めます』と言い、報道陣との間には常に緊張感が漂っていました。たまに直接質疑応答に応じることがあっても、気に入らない質問には、まるで聞こえなかったかのように『次(の質問)!』と言い放つこともありました。米国の記者の間でも、イチロー氏の態度に対する評判は決して芳しいものではありませんでした」(当時を知る民放テレビ局関係者)
2年後の2003年、巨人からヤンキースへ入団した松井秀喜氏には専属広報が付き、基本的にロッカールーム内では日本メディアの松井氏に対する取材を禁じ、その代わり、必ず全試合後に日本向けの囲み取材に応じるルールをつくった。イチロー氏をめぐる騒動を他山の石としたものだ。
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