神風特攻隊として散った現役プロ野球選手「石丸進一」 特攻命令が出たその日「これで思い残すことはない」と投げた“最期の10球”(小林信也)
「報道班員さようならッ」
召集された進一は、自ら特攻隊を志願した。
出征直前、父の借金を完済してから入営している。
特攻命令が出た45年5月6日、鹿児島県知覧で、法政大の一塁手だった本田耕一と「10球だけ」と決めてボールを投げ合った。本田が進一の投球を捕るたび、その場に居合わせ、審判役を務めた報道班員が「よし一本!」と叫んだ。
きっちり10球を投げ終えると、進一は、
「これで思い残すことはない。報道班員さようならッ」
そう言ってグローブを置き、飛行場に去った。その日は悪天候で出撃が延期となり、実際に進一が飛び立ったのは5日後の11日だった。この話が広く語り継がれているのは、作家・山岡荘八が62年、朝日新聞に「最後の従軍」という原稿を書いたためだ。山岡こそ、報道班員その人だった。
出征したプロ野球選手の消息は明らかなものが少ない。私は駆け出しのころ、景浦将(阪神)、吉原正喜(巨人)らの戦死の詳細を取材した経験があるが、親戚縁者でさえ、不確かな伝聞情報しかなかった。進一に関して詳しく記しているのは、山岡のほか、『消えた春 特攻に散った投手 石丸進一』を書いたノンフィクション作家・牛島秀彦が進一のいとこで、幼少時に交流があった偶然も影響している。
キャッチボールに使った新しいボールをどこで入手したのか。プロ野球創設に深く関わり、セ・リーグ会長を長く務めた鈴木龍二が回顧録に書いている。
〈新しいボールは、筑波隊から鹿屋への転属を命ぜられて、休暇を得た4月18日、東京・小石川の春日町近くにあった理研工業本社に、赤嶺昌志君を訪ねて、無心して手に入れたものであった。石丸君はこの日、東京駅から徒歩で、2時間もかかって理研工業を探しあて、赤嶺君を訪ねたのだという。(中略)「ボールがほしいというので、おい生きて帰れよ、また野球をやろう、待っているぞ、と言うと、赤嶺さんもお元気で、と挙手の礼をして帰って行った。あのとき石丸は、もう死を覚悟していたのですね」
のちに赤嶺君から聞かされた話である〉
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