神風特攻隊として散った現役プロ野球選手「石丸進一」 特攻命令が出たその日「これで思い残すことはない」と投げた“最期の10球”(小林信也)

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 石丸進一は、現役プロ野球選手で唯一、神風特攻隊員として散った投手だ。

 佐賀商でエースとして活躍したが2年続けて佐賀大会決勝で敗れ、甲子園に届かなかった。上背もない。プロから声はかからなかった。進一は、8歳上の兄・藤吉に手紙を書いた。藤吉は名古屋軍の内野手。送ったのは召集先の中国だ。

「名古屋軍に入りたい。口を利いてくれないか」

 弟の頼みに、兄はすぐ応じなかった。プロは厳しい。弟の力量も分からない。普通の仕事に就くよう勧める返事を送った。しかし、血判まで押して名古屋軍への入団志願用紙を寄越す弟の覚悟に動かされ、赤嶺昌志代表に働きかけた。

 進一がプロ野球入りを強く望んだのは、球界への憧れ以上に、貧しい暮らしの中で自分を佐賀商に行かせてくれた父に早く恩返ししたかったからだ。プロ野球で活躍すれば、一般の仕事より倍は稼げる。

 進一は11人きょうだいの8番目。父は理髪業。子どもたちを学校に行かせたくて借金を重ねた。その借金を返すために勝負した株式投資で失敗し、さらに多額の借金を背負った。

 手紙を受けた赤嶺は、本来は投手と知りながら進一を兄と同じ内野手で起用させた。時節柄、プロ野球は敵性スポーツゆえ当局から厳しい目を向けられていた。

「戦場の兄を支えるため、『兄さん、銃後は任せておけ』となれば軍部の印象も良くなる」

 という赤嶺の発案だった。

 こうして、プロ野球初の兄弟選手が誕生した。1年目の1941年、73試合に出場し、46安打、打率.197にとどまった。2年目、過去2年で33勝を稼いだエース村松幸雄が召集され、大黒柱を失った事情もあり、進一は念願の投手となった。

 42年、初先発で2安打完封勝利を飾ると、絶妙のコントロールで17勝19敗。続く43年には20勝12敗。防御率1.15の数字が進一の安定感を物語っている。

 43年10月12日の大和戦、戦中最後となるノーヒットノーランを記録した。しかし、戦争の激化に伴う紙不足で新聞の紙数も減り、わずかにスコアと投手名が記載されただけで、進一の快記録は伝えられなかった。

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