【べらぼう】蔦重を甘い罠にかけた 片岡愛之助「鱗形屋」の哀れな最後
所詮は蔦重の敵ではなかった
だが、安永4年(1775)5月、鱗形屋に敵失が生じる。鱗形屋の徳兵衛という手代が、大坂の版元が『大全早引節用集』として出版済みの本を、勝手に『新増節用集』と改題して出版したのである。このような「著作権侵害」は当時もご法度だったので、鱗形屋は訴えられてしまった。吟味が行われ、徳兵衛は家財を取り上げられたうえで江戸十里四方追放に。監督責任を問われた鱗形屋にも罰金20貫文が科された。
その結果、鱗形屋は評判を落として出版物の売上げが減り、経営が不安定になって、その秋に出すべき『吉原細見』が出版できなくなってしまった。この好機を逃さず、同年7月にみずから『吉原細見』を出版したのが蔦重だった。前出の鈴木氏は《吉原細見が出版されないということは公許の遊郭吉原では許しがたいことであるはずで、そういった吉原側の後ろ盾を得て蔦重が任されることになったものであろう》と記す(前掲書)。
蔦重が版元として刊行した『吉原細見』は、それまでのものと違っていた。縦型小本だったのを、蔦重は一回り大きな縦型中本に変えた。判型が大きくなったため、道をはさんで2件の女郎屋の記事を1ページに盛り込めるようになり、見やすさが向上するとともに、紙の枚数を減らすことができた。
当時の出版物は浮世絵と同様に木版で、ページごとに版木を制作した。だから、ページが減れば紙の枚数が減り、そればかりか彫師や刷師の人件費も抑えられる。結果、安く売ることもできる。
翌安永5年(1776)、鱗形屋は『吉原細見』の刊行を再開したが、もはや蔦重版の敵ではなく、次第に駆逐された。小細工が得意な業者は所詮、メディア王にのし上がる蔦重の敵ではなかったのである。
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