昭和100年で振り返る受難続きの高速鉄道 財界が熱望した電気鉄道・弾丸列車から東海道新幹線・リニアまで
2024年は東海道新幹線の開業60年というメモリアルイヤーだったが、今年は昭和100年という節目にあたる。昭和100年という歴史の中で、新幹線が走っていた期間は半分以上を占めている。そう考えると、新幹線が昭和史に占める割合はかなり大きい。
筆者は1月に『鉄道がつないだ昭和100』(ビジネス社)という本を上梓した。同書でも新幹線について一章を割いている。その一章のみならず本全体でも新幹線の影響は無視できない。なぜなら、執筆するにあたって鉄道関連の書籍のみならず、鉄道とは縁の遠いジャンルの書籍でも、東海道新幹線の記述が山のように出てきたからだ。1964年に開業した東海道新幹線は、世界の常識を覆し、人々の価値観と生活を激変させる高速鉄道だった。
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明治期から続く高速鉄道構想
東海道新幹線は第4代国鉄総裁の十河信二の悲願と紹介されるが、当時の国鉄内では新幹線計画に対して冷ややかな目で見る幹部・職員は少なくなかった。後に田中角栄に請われて第7代国鉄総裁に抜擢された藤井松太郎は、十河の新幹線計画に反対して国鉄を去るほどだった。
また、新幹線計画がスタートした当時の建設大臣(現・国土交通大臣)は自民党の重鎮だった河野一郎で、河野は新幹線計画を説明するために訪れた十河に対して「世界で線路を引っぺがしているときに、なぜ新しい鉄道を建設するのか?」と猛烈に反対した。
こうした高速鉄道に対する受難は、東海道新幹線だけに起きた現象ではない。実は新幹線のような高速鉄道は明治期から計画され、猛烈な反対を受けていた。
日本の鉄道は1,067ミリメートル軌間で建設された。線路は2本のレールで構成されているが、このレールとレールの間隔を軌間と呼ぶ。鉄道発祥の地・イギリスは1,435ミリメートル軌間が一般的で、1,435ミリメートル軌間を標準軌、1,067ミリメートル軌間を狭軌と呼ぶ。
標準軌に比べると狭軌は運行できる車両が小型になるので、その分だけ輸送力が落ちる。また、軌間が狭いと安定感がなくなって物理的に列車の速度を上げることが難しくなる。東海道新幹線は時速200キロメートルでの運転を目指していたので、それまで国鉄が採用してきた狭軌ではなく、1,435ミリメートル軌間の標準軌を採用した。
明治期に計画された高速鉄道は、安田財閥の創始者でもある安田善次郎が日本電気鉄道という私鉄を構想したことから計画が始まる。当時の東海道本線は一部の区間しか電化されていなかったが、安田の日本電気鉄道はその名称からも窺えるように電気鉄道という名称からも窺えるように電車による運行を想定していた。
日本電気鉄道は東京―大阪間を1,435ミリメートル軌間の線路で結び、両都市間の所要時間は約6時間と想定していた。東海道本線が全通した1889年、東京―大阪間を列車で移動するには約20時間が必要だった。それが6時間に短縮されるのだから、日本電気鉄道が整備されることは日本全体に大きなメリットをもたらす。特に経済界から賛同者が多く、ゆえに安田の日本電気鉄道に多くの財界人が支援を表明した。
しかし、政府は東京―大阪を結ぶような主要幹線の経営を民間に委ねることはできないと判断。そうした理由から日本電気鉄道の申請を却下される。その後も財界人によって日本電気鉄道の計画は繰り返し申請されたものの、最終的に日の目をみることは叶わなかった。
標準軌の鉄道を目指したのは日本電気鉄道のような私鉄ばかりではない。明治期には官からも標準軌による鉄道建設を求める声が出ていた。
官から標準軌の鉄道を求めた代表的な人物は、1908年に初代鉄道院総裁を務めた後藤新平だろう。後藤は1906年に南満洲鉄道の総裁に就任し、すでに国外で標準軌の鉄道を運行させた実績を有する。
そうした経験に基づき、後藤は国内の鉄道も標準軌へ改軌するべきだと主張した。1916年に寺内正毅内閣が発足すると、八浜(現・横浜)線で標準軌の実験も敢行した。後藤の熱意によって政府は標準軌への改軌に前向きになったが、寺内内閣の後に誕生した原敬内閣は「改軌に財源を投じるよりも、全国に線路を建設すること」を優先した。こうした政府の方針転換によって、標準軌への改軌は見送られる。
元号が昭和に変わると。再び高速鉄道の計画が浮上した。その背景には日本から中国大陸や朝鮮半島、満洲国への移動需要が増えたことがある。それまで日本から中国大陸や朝鮮半島、満洲国へと渡るには、東海道本線の特急を使って神戸や下関まで移動すること一般的だった。需要が増したことにより、東海道本線だけでは捌ききれなくなり、東京―大阪―下関を結ぶ新しい移動手段が必要になったのだ。その新しい移動手段として高速鉄道が求められた。
鉄道院から格上げする形で1920年に発足した鉄道(現・国土交通)省は東京―大阪―下関を結ぶ高速鉄道の実現に前向きで、メディアも弾丸列車と呼んで世論を喚起。高速鉄道を実現するムードを後押しした。
政府は弾丸列車のために予算をつけたが、1943年に日本の戦局が思わしくないことを理由に計画は中止される。すでに一部の区間では用地買収を済ませていたが、それらは1964年の東海道本線に転用された。
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