明治天皇はなぜ「伊勢神宮」を後回しにして「関東の別の神社」を参拝したのか 「スサノヲと天皇家」の不思議な関係
伊勢神宮には天皇家の祖神、天照大神(あまてらすおおみかみ・アマテラス)が祀られているが、明治天皇が参拝するまで持統天皇を除き、歴代天皇はひとりも伊勢神宮を訪れていない。
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その謎については前編【歴代天皇はなぜ1000年以上も「伊勢神宮」を参拝しなかったのか 伊勢神宮に祀られている祭神の謎】で迫っているが、じつは東京へ遷御後に1000年超の時を経て伊勢神宮を参拝した明治天皇は、なぜか伊勢神宮の前に「スサノヲ」が祀られている神社を参拝している。なぜアマテラスではなくスサノヲだったのか――。
天皇家の祖神アマテラスとその弟であるスサノヲにまつわる数々の謎に挑んだ、歴史作家の関裕二氏の著書『スサノヲの正体』(新潮新書)をひもとくと、スサノヲと天皇家の不思議な関係が見えてくる。同書から抜粋してみよう。【全2回の後編(前編/後編)】
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スサノヲと天皇家の不思議な関係
明治元年(1868)3月、明治天皇は大阪に御幸(みゆき)されたが、その時男山八幡宮(石清水八幡宮)に、また8月に賀茂下上社(京都市左京区・北区)・坐摩(いかすり)神社(大阪市中央区)・住吉大社(大阪市住吉区)に、9月には熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)に参詣されている。
そして10月13日、東京に遷御されると、スサノヲの祀られる氷川神社を武蔵国の鎮守勅祭の社と定められ、遷御後最初の行幸地に選んでいる。伊勢神宮参拝は、翌年のことになる。なぜか伊勢神宮は後回しになっている。
関東にもアマテラスを祀る神明社は存在し、室町時代から続く古社もある。たとえば東京都三鷹市の神明社は天文6年(1537)の創建で、「お伊勢様」「神明様」と呼ばれ、親しまれていた。ならばなぜ、あえて氷川神社を選んだのだろう。
ここでスサノヲをめぐる問題は、伊勢神宮に飛び火する。
歴代天皇が1000年以上訪れなかった「伊勢神宮」
7世紀後半に伊勢神宮が今の形に整えられてからあと明治維新に至るまで、持統天皇を除き、歴代天皇はひとりも伊勢を参拝されていない。そして、明治天皇は氷川神社参拝の翌年、ようやく伊勢神宮に向かわれた。
伊勢神宮は社格として日本一で、広大な森林を保有していることも有名だ。なぜ、あれだけの規模の土地を確保できたかと言えば、国家の庇護があったからにほかならない。祭神のアマテラスは天皇の祖神であり、神社は大切に守られてきたのだ。ところが、歴代天皇は、伊勢神宮を無視し続けてきた。
なぜ明治天皇は真っ先に伊勢神宮を参拝されなかったのか。なぜ氷川神社(スサノヲ)のあとに伊勢(アマテラス)なのか。スケジュールの都合が大きかったのかもしれないが、古代から明治維新に至るまで、歴代天皇が伊勢を避けてきたことは腑に落ちない。
ここで話はさらに意外な場所に飛ぶ。それが、スサノヲと縁の深い熊野だ。天皇の行幸はないが、平安時代後期から、太上天皇(院)や皇族、貴族が競って熊野に向かっている。なぜ、伊勢(アマテラス)ではなく熊野(スサノヲ)なのか。
民俗学者の五来重(ごらいしげる)は熊野を「謎の国、神秘の国である」(『熊野詣』講談社学術文庫)と表現しているが、要は秘境だった。
元熊野那智大社宮司の篠原四郎は『熊野大社』(学生社)の本文冒頭に、昭和30年代半ばまで、「熊野は陸の孤島であった」と述べている。今でこそ自動車道が整備されて、安楽な旅行が可能となったが、つい最近まで熊野は辺鄙だった。それにもかかわらず、平安京の貴種たちは競って熊野に詣でていたのである。
末法の世に熊野に押し寄せた貴種たち
それだけではない。熊野の山塊は、得体の知れない怖ろしさに溢れている。人智を超えた力が漲(みなぎ)っている。古くは山に死者の霊がこもると信じられていた(山中他界観)から、人びとは山を恐れ、滅多矢鱈に入山することはなかった。V字谷と深い森がいつまでも続く熊野路は、古代人にとっても魔界であり、奈良時代になってようやく修験者が分け入っている。彼らはアウトサイダーゆえに、吉野や熊野を選んだが、都の貴種たちが物見遊山で分け入るような場所ではなかったはずなのである。
ところが平安時代後期から、都の貴族たちは、まるで魔法をかけられたように、熊野を目指すようになった。しかも、熊野本宮大社の祭神・家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)の別名が、スサノヲだという。熊野本宮が「主祭神はスサノヲ」といいだしたのは江戸時代後期のことなのだが、もともとスサノヲと熊野の縁は深く、スサノヲを熊野本宮大社では家都美御子大神と呼んでいたと考えるべきだ。
延喜7年(907)10月、宇多(うだ)法皇が熊野御幸(ごこう)をはじめて催した。上皇・女院(皇后や内親王など)による熊野御幸は、このあと100度を超える頻度で行われている。
平安時代後期以降の浄土信仰の広がりが、熊野詣でのきっかけになったというのが、教科書的な説明だ。
仏が世の人を救うために神の姿でこの世に現れたとする「本地垂迹(ほんちすいじゃく)説」を受けて、本宮の家都美御子大神は阿弥陀如来(未来救済仏)、新宮の速玉(はやたま)神は薬師如来(過去救済仏)、那智の牟須美(むすび)神は千手観音(現生救済仏)が本地(本体)とされた。本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)で、熊野は過去・現在・未来の本地仏の住処(浄土)と信じられるようになったのだ。皇族や藤原氏を中心とする貴族たちは、極楽往生を願い、熊野に参詣したことになる。
なぜ伊勢ではなく熊野なのか
ただし、秘境や魔界にあえて足を踏み入れさせるだけの理由があったはずで、それは「浄土信仰の高まり」などという生やさしいものではなく、「恐怖の末法思想が浄土信仰熱を高め、人びとを熊野に向かわせた」と、言い直さなければならない。
お釈迦様が亡くなられた(仏滅)年から2000年後の永承7年(1052)に、末法の世がやってくると信じられていた。末法の時代になると、いくら修行と善行を積み重ねても意味のない時代に突入する。だから、みな震え上がった。しかも、多くの事件や火災が起きて、信憑性が増していたのだ。
寛仁3年(1019)3月から4月にかけて、北部九州の大宰府管内に女真(じょしん・北方のツングース系民族)の軍勢が攻め寄せ(刀伊〈とい〉の入寇〈にゅうこう〉)、掠奪、殺戮の限りを尽くした。
末法の年に入ると、疫病が流行した。さらに、末法第1年の8月に平安貴族がこぞって参詣していた長谷寺(はせでら・奈良県桜井市)が焼亡している。天喜6年(1058)には、藤原氏繁栄の象徴であった法成(ほうじょう)寺(京都市上京区)が焼け落ちてしまった。都の貴族たちは、動揺し、救いを求めた。こうして熊野詣でが盛んになった。ただ、なぜ熊野なのか。
熊野には死のイメージがつきまとっていた。『日本書紀』神代上第五段一書第五に、火の神を生む時に焼かれて亡くなったイザナミを、紀伊国の熊野の有馬村(花窟〈はなのいわや〉神社)に葬ったとある。出雲建国で活躍した少彦名命(すくなびこなのみこと)も、熊野ら常世国(とこよのくに・死の国。根国〈ねのくに〉)に去って行ったと神話に書かれている。熊野は死の国だが、ひょっとするとそこに暗いイメージはなく、極楽浄土への近道と信じられていたのかもしれない。
俗世間から離れ、大自然の中に溶けこみ、苦行のような旅を続けた先に、常世国(浄土?)への入口がある。熊野に、救いがあると都人たちは信じたのだろう。
政敵のシンボル?
しかしそれでも、なぜ末法の世に歴代天皇は伊勢神宮にすがりつかなかったのか、不思議なのである。その理由を知りたい。
要は、この時代の為政者が何を考えていたのか、である。仮に「熊野=スサノヲ」と話を単純化してみると、興味深い事実が浮かび上がってくる。
恐怖の末法の時代に浄土信仰が高まり、絶頂期にあった藤原氏は、寺院を建立し阿弥陀如来像を祀り「われわれだけは浄土に導かれたい」と念じていたが、それでも安心できなかったのか、スサノヲの坐(ま)します熊野を目指した。ここにヒントが隠されているのだと思う。
『日本書紀』編纂の中心に立っていたのは藤原氏繁栄の基礎を築いた藤原不比等だが、神話の中でスサノヲに「穢れた賤しい神」とレッテルを貼っている。ここに政治性を感じずにはいられない。
藤原不比等はヤマト政権の伝統的な統治システムである合議制を破壊し、独裁を目指した人物だ。ヤマトの古い豪族たちを滅亡に追い込んでいる。その政敵たちの業績や手柄を横取りしたうえで悪人に仕立て上げてしまったが、まさに、藤原氏に追いやられた敗者とスサノヲの姿が重なって見える。スサノヲは藤原氏が滅ぼした政敵のシンボルではなかろうか。恨みを買い、祟られると思うからこそ、「鬼のレッテル」を貼る一方で、密かに祀り続けていた可能性は高い。
御霊(ごりょう)信仰(追い落とした政敵の祟りを恐れ、政敵の御霊を祀ること)の高まりと末法思想は重なっていき、恐怖心を藤原氏に植え付けたのだろうし、藤原氏に荷担した天皇や皇族たちも、思いは同じだっただろう。
平安時代の皇族や貴族たちは「祟る神は恵みをもたらす神」という原理にしたがって、政敵の亡霊に脅えつつも丁重に祀り、「あわよくば許してもらい、救ってほしい」と虫のいい了見で、「恐ろしいスサノヲの熊野」を巡礼したのではなかったか。
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この記事の前編【歴代天皇が1000年以上訪れなかった「伊勢神宮」の謎 伊勢神宮とスサノヲの不思議な関係】では、天皇家の祖神、天照大神(あまてらすおおみかみ・アマテラス)が祀られている伊勢神宮に明治天皇が参拝するまで1000年以上も歴代天皇が訪れなかった謎について迫っている。