「掛布雅之」選出でも、「江川卓」はなぜ野球殿堂に入れない? “野球ムラ”から嫌われた半生を、「空白の一日」を取材したベテラン記者が読み解く

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巨人との契約事項に……

 その後も江川は巨人のエースとして活躍。が、高校時代から酷使してきた右肩の故障で、選手寿命は短かった。1987年に引退し、その後は日本テレビの解説者として売れっ子になった。

 指導者になるチャンスもあった。巨人の監督候補として名が上がることはしばしば。しかし、その度に潰れ、「万年監督候補」と言われた。株や不動産で作った借金が原因などと言われている。現場復帰の最大のチャンスは、2011年だった。

 この年、3位に終わった巨人の立て直しに渡辺恒雄・読売グループ代表が江川のヘッドコーチ招聘を画策。岡崎郁のヘッドコーチ就任を決め、承認を得ていた清武英利・球団代表と激しく対立した。俗に言う「清武の乱」である。清武氏は解任されたが、江川ヘッドコーチ就任も流れた。この際、渡辺氏が江川を評して言ったとされる「悪名は無名に勝る」という言葉は、江川が球界でどう評価されているかを物語っている。その渡辺氏も昨年、没した。

 その後、巨人の監督は原から高橋由伸、再び原を経て阿部慎之助へと受け継がれている。阿部は江川よりも2回りも年下だ。今年で江川は古稀を迎える。これまで指導者経験がないことを見ても、監督就任の可能性は低くなってきたと見てよい。

 私は「空白の一日」の際、雲隠れした江川に本音を聞くべく、追いかけた。江川は親交の深かった漫画家の故・水島新司氏の自宅に身を潜め、その後、栃木県小山市の実家に密かに戻っていた。事件から2日半後、私は実家で彼と接触することに成功した。江川は当初、「話もできません」との対応だったが、なおも食い下がると、根負けしたのか、「阪神と巨人に話し合ってもらうしかないですよ」と、後のトレードを示唆する、短いが、重要なコメントをくれた。

 その際、江川の父にも話を聞いた。連日張り込みを続けた私の身体を慮ってくれたのか、父・二美夫さんはこっそりとこんな話を教えてくれた。

「息子の最終的な夢は巨人の監督です。親としてもどうしてもこの目標はかなえてあげたい。実は巨人との契約事項にも、(監督の件は)入っている」

 だから私は今でも心の片隅では、「江川監督」の可能性を捨ててはいない。

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