「掛布雅之」選出でも、「江川卓」はなぜ野球殿堂に入れない? “野球ムラ”から嫌われた半生を、「空白の一日」を取材したベテラン記者が読み解く
野球ムラの評価
もうひとつ、江川の殿堂入りが難しいと見られる理由に、選手OB、フロントや野球担当記者などの「野球ムラ」において、彼の評価が決して高くないという点が挙げられる。野球殿堂の投票権を持つのは記者だ。投票するには、プレーヤー表彰は「15年以上」、エキスパート表彰は「30年以上」の野球報道年数が必要と規定されている。江川はもともと入団の際の「空白の一日」事件の経緯などもあり、記者受けは良くない。引退後も指導者となっていないから、彼と面識が薄いという記者も少なくないだろう。
そもそも引退後、指導者になるためには、ムラの中での評価が大きな要素を占める。野球界は狭い。学閥や人間関係などの「コネ」がまかり通る世界だ。江川のように一匹狼で孤高の存在にはなかなかお声がかからない。
空白の一日
振り返ってみれば、江川の野球人生は、そういった「ムラ」から嫌われた人生だった。
作新学院高校時代、ノーヒットノーラン12回と圧倒的な投球で「怪物」と呼ばれた江川はドラフトで阪急ブレーブスから1位指名を受けるが、大学への進学を希望して拒否。法政大学へ進学する。大学でも47勝(歴代2位)、443奪三振(当時歴代トップ)と実績を残し、大学4年時のドラフトではクラウンライターライオンズが交渉権を獲得する。巨人入団を熱望する江川はまたこれを拒否し、アメリカで浪人生活を送った。
そして翌1978年、巨人がドラフト会議の前日、クラウンライターとの独占交渉権がその前日で消滅したとの解釈を持ち出し、江川をドラフト外で入団させると発表した。俗に言う「空白の一日」事件だ。前代未聞の出来事に、セ・リーグは無効と裁定。反発した巨人はドラフトをボイコットした。大荒れのドラフトでは阪神が江川の交渉権を獲得。政財界まで巻き込んで大揉めに揉めた末、コミッショナーの裁定で、江川は一度、阪神に入団し、巨人の小林繁投手とのトレードによって、巨人入りを果たすことになった。こうして念願の巨人入りを果たしたが、彼に付いたイメージは最悪だった。ごり押しするという意味で、「江川る」という造語が生まれた。江川が記者会見で言った「興奮しないで」との台詞は、流行語にもなった。
[2/5ページ]