平成以降“最低の成績” 「豊昇龍」を何としてでも「横綱」に昇進させたかった「2人の親方」の思惑
貴乃花と魁皇
今から約30年前の話だ。大関・貴ノ花は1993年の春場所から11勝(優勝次点)、14勝(優勝)、13勝(優勝同点)、そして12勝(優勝次点)の成績を収めるが、この間、横審へは諮問すら行われなかった。貴ノ花は翌年の夏場所からも14勝(優勝)、11勝、15勝全勝(優勝)という成績を収め、この時は諮問が為されたが、それでも昇進を見送られている。
「この頃の横審による昇進のハードルはとにかく高かった。横綱・貴ノ花誕生に向けては2時間以上の大激論が繰り広げられました。最終的に貴ノ花を横綱に推薦するか、どうかは委員全員の無記名投票で決めることになった」(夕刊紙記者)。
11人の委員の中で賛成は6票。横審の内規である「3分の2以上の賛成」には及ばなかった。貴ノ花は場所後、貴乃花と改名。翌九州場所で2場所連続全勝優勝を果たして文句なしの成績で横綱に昇進した。
厳しい基準に泣いたのは、元大関・魁皇も一緒だ。2004年秋場所で、13勝2敗で優勝。翌九州場所では3敗を喫するも、千秋楽に渾身の力で当時全盛期だったモンゴル人横綱の朝青龍を堂々と寄り切り、優勝次点に漕ぎつけた。地元九州場所の観客は「横綱・魁皇誕生」を疑わず、この瞬間大声援が送られた。「それでも見送られたのは当時協会トップだった故・北の湖理事長が綱取りのノルマを“13勝以上”に設定していたからでした」(前出・夕刊紙記者)。魁皇は当時「2敗した時点で昇進はないと思っていました。負け方もみっともなかった。貴乃花親方が2度も見送られていたからね」と話していた。
ロンドン公演も……
こうした例を鑑ると、豊昇龍の昇進に疑義が生じるのは当然のこと。
この点について八角理事長は「私も12勝の優勝と13勝(の優勝次点で横綱昇進)だった」と強調した。
横審の山内委員長に至っては、
「3敗は微妙ですが、優勝は重い。何よりロンドン公演も控えていますからね」
と協会の思惑を代弁する一幕もあった。
叔父の存在
ともあれ、昇進は決まった。今後、注目が集まるのは豊昇龍の叔父である朝青龍氏の存在だ。
朝青龍氏は優勝25回を数えた大横綱だが、品格に問題があり、休場中にモンゴルでサッカーに興じたり、酒を飲んで関東連合の関係者に暴行を働いたりと、数々の不祥事を起こした。横審から「引退勧告」を出され、引退に追い込まれた過去がある。
豊昇龍もその叔父の影響を受けて、問題を起こさないかという懸念だ。報道では、豊昇龍は叔父とは性格が異なると言われ、最近は不仲だったとの報道もある。しかし、一方で、叔父を尊敬しているのは間違いなく、今も本場所で「朝青龍明徳」と刺繍されたタオルを肌身離さず大切に使っている。まして、1人横綱ともなれば、周囲に厳しい言葉をかけてくれる人などいなくなる。
横審でもその点への危惧は根強い。作曲家で文化庁長官の都倉俊一委員は「モンゴル横綱が全員、横綱の品格ではなかったでしょ? 国技であることを自覚してくれれば……立浪親方(元小結旭豊)に指導してもらってね」と本音を漏らしている。実際、豊昇龍は初場所優勝後の一夜明け会見で「寝てました」といきなり11分の遅刻というお手つきをした。
豊昇龍を半ば強引に横綱に引き上げたのは、紛れもなく日本相撲協会と八角理事長だ。今後、成績や素行の面で問題が起きれば、その責めは間違いなく自らに返ってくることだろう。
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