「母子家庭」で育ち、軟式野球で努力を重ね…テスト生から初の野球殿堂入りをはたした広島カープの名投手秘話

スポーツ 野球

  • ブックマーク

高校時代もスカウトの目に留まっていたが、「母子家庭」であったために

 同じころ、地元の出雲高が秋の中国大会出場を決め、練習試合で出雲信用組合の胸を借りることになった。3年ぶりに硬球を握った大野は、5回を1安打13奪三振の快投を演じ、「プロでできるかもしれない」の思いを深めた。

 さらに翌1977年の年明け後にも、運命的な出来事があった。出雲市で少年野球教室が開かれ、広島の山本一義打撃コーチと前年20勝を挙げてリーグ最多勝を獲得した池谷公二郎が講師として招かれた。グラウンド整備などを手伝った大野は、野球教室終了後の食事会で2人からプロについて直接話を聞き、ついに「自分もプロでやってみたい」と決意した。
 
 たまたま高校1年のときの谷本武則監督が山本コーチの法政大時代の先輩だったことから、“法大ルート”でプロ入り希望を伝えると、新人としては異例の2月下旬に入団テストを行うことになった。

 雪の季節で練習もままならないなか、大野は友人や高校時代の野球部の後輩の協力を得ながら、雪かきをした中学のグラウンドで遠投、屋根付きの相撲場をマウンドに見立て、投球練習に励んだ。
 
 受験を前に野球部監督を務める上司に辞表を出したが、不合格になったときの身の振り方を心配した上司は「1週間の休みをあげるから、休暇願を出しなさい」と言って、辞表を預かってってくれた。
 
 テストは2月下旬に広島2軍のキャンプ地・呉で行われ、野崎泰一2軍監督、木庭教スカウトの立ち会いの下、投球を披露した。木庭スカウトは、大野の姿を見るなり、「なんだ、勝(高校時代は父方の勝姓)のことだったのか」と思い当たった。島根は準地元であり、高校時代にリストアップしていたのだ。

「スカウト」(後藤正治著 講談社文庫)によれば、多少触手が動いたが、「子供の体」であることと母子家庭で出雲を離れられないようだという話を聞き、手を引いたという。

 だが、あれから3年が経ち、球威も増し、大きなカーブを投げるようになった大野は、左腕であることも大きな魅力で、まさに“掘り出し物”だった。

「我が選んだ道に悔いはなし」

 それでも、プロで成功しなかったときの将来を案じた木庭スカウトは「一応、採用の方向で考えているんだが」と告げながらも、本人の気持ちが変わらないかどうか確かめるため、「お前さん、信用組合で金を数えているほうが、安定した暮らしでいいんじゃないか」と再考を促した。

 大野は、最終意思確認にも迷うことなく「よろしくお願いします」と答えた。

「夢の第一目標を突破したことは、私のその後の自信と励みになった。挫折しそうになると、いつもこの日の感激を思い出し、本気になってやれば、あきらめないで続ければ、できないことなどないのだ。やればできる。その時、夢は初めて『ただの夢ではなくなる』(自著『全力投球 我が選んだ道に悔いはなし』宝島文庫)。

 ここから22年間の長きにわたるプロ野球人生がスタート。通算148勝、138セーブを記録し、1998年9月27日の横浜戦で現役最後のマウンドに上がったレジェンドは、試合後に行われた引退セレモニーの挨拶で、「我が選んだ道に悔いはなし」の言葉を口にして、スタンドの大歓声を受けた。

 そして、2013年1月には、ドラフト外入団のテスト生出身ではNPB史上初の野球殿堂入りをはたした。

 ドラフト外入団がなくなり、育成選手枠もある現在では、春季キャンプ中に新人の入団テストを行うことはあり得ない。独立リーグなどNPB入りにつながる野球環境も広がった。

 だが、今もどこかに“ダイヤモンドの原石”が埋もれているのではないかと、“第2の大野”を脳裏に描き、ロマンをかき立てられるファンも少なくないはずだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。