「母子家庭」で育ち、軟式野球で努力を重ね…テスト生から初の野球殿堂入りをはたした広島カープの名投手秘話

スポーツ 野球

  • ブックマーク

 2月1日からプロ野球春季キャンプがスタートする。この時期には、まだ移籍先が決まらない選手が入団テストを受ける例も多い。ロッテ・吉井理人監督も、オリックスを戦力外になった2004年の春季キャンプ中に、近鉄と合併したオリックスの入団テストに合格している。過去には、新人としては異例の2月にテストを受け、合格を勝ち取ったばかりでなく、後に野球殿堂入りをはたしたレジェンドがいるのをご存じだろうか――。【久保田龍雄/ライター】

 ***

ライバルの球界入りに「自分もプロで通用するかも」と

 その男の名は、大野豊。1972年、出雲商2年秋からエースになった大野は、球は速くても制球に難があり、「抑えてやろう」と力んで四球を連発。苦し紛れに投げた好球を痛打されるパターンが多かった。

 だが、3年春の県大会では、この大会を制した選抜出場校の松江商に敗れたものの、9三振を奪い、県内屈指の左腕と注目された。

 エース、主将、3番打者で迎えた夏の県大会では、1回戦で実力がほぼ互角の安来に2対3と惜敗。2対1と勝ち越した直後の6回裏、2死から連続タイムリーを浴びたのが命取りになった。胃腸が弱い体質の大野は、夏は食欲不振から体重が激減し、腹に力が入らなかったにもかかわらず、この試合では7三振を奪っている。

 この時点でプロ入りをまったく考えていなかった大野は、母子家庭だったこともあり、自宅から通えて、どんな形でも野球が続けられる堅実な職場という条件に合う地元の出雲信用組合に就職。窓口業務や自転車で外回りの営業をしながら、軟式野球部でプレーした。チームは全国クラスの強豪で、在職中、全国大会に2度出場。大野もダブルエースの一人として活躍した。

 初めてプロ入りを意識するようになったのは、入社3年目の1976年秋、1学年下で、平田高のエースだった青雲光夫が大学を中退して阪神にテスト入団したことがきっかけだった。

 青雲とは高校時代に何度か投げ合い、実力では引けを取らないと思っていただけに、「自分もプロで通用するかもしれない」と強い刺激を受けた。

次ページ:高校時代もスカウトの目に留まっていたが、「母子家庭」であったために

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。