大きな期待を寄せられていたのに、開幕前の大ケガで活躍できず…「阪神」と「中日」のドラ1は、思わぬアクシデントで“短命”に終わった

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 2月1日からプロ野球の春季キャンプが始まる。キャンプ中は、期待のルーキーや若手の話題が報じられることも少なくないが、過去にはキャンプやシーズン開幕前の大ケガが原因で、大成を阻まれた選手がいた。【久保田龍雄/ライター】

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開幕前の紅白戦で全治2ヵ月の大けが

「将来のエース」と期待されながら、練習中の大ケガにより、野球人生が暗転したのが、1982年にドラフト1位で阪神入りした源五郎丸洋である。

 高校時代に綺麗なフォームと重い速球で評判になった右の本格派は、2月12日に1軍の安芸キャンプに合流すると、調整が遅れる先輩たちを尻目に自慢の速球をビシビシ投げ込み、「とても高校生には見えん。今年中に二桁勝てる」「村山(実)2世だ」とOBの解説者たちの目を見張らせた。

 悲劇が起きたのは、キャンプ打ち上げ直後だった。高校の卒業式で帰省予定だった源五郎丸は、3月3日に甲子園で行われる有料紅白戦で登板するため、急きょ呼び返され、紅組の先発としてマウンドに上がった。

 1回に安打とけん制悪送球で1死三塁のピンチを招き、佐野仙好の左犠飛で1点を失うも、4番・掛布雅之を重い速球で浅い中飛に打ち取り、平日のデーゲームにもかかわらず詰めかけた8000人のファンから大拍手を送られた。

 2回も1死三塁から後続2者をいずれも内野フライに打ち取り、2回を2安打1失点。本人は「まだスピードも出ていないし、点数は20から30点ですよ」と不満そうながらも、安藤統男監督は「しばらく1軍で使ってみたい」と期待を深めた。

 ところが、翌4日、2軍の練習に参加した源五郎丸は、約50球の投球練習後、最後のメニュー、一塁までのベースランニング中、突然右足を引きつらせ、その場にうずくまってしまう。

 病院検査の結果、右足大腿二頭筋部分断裂で全治2ヵ月と診断された。この日の2軍練習は、「1軍に置くと気がはやる」(安藤監督)という配慮からだったが、結果的にまだ体もできていない18歳の新人を、営業優先の有料試合で“人寄せパンダ”として無理に投げさせた代償は大きかった。

 4月中旬にキャッチボールを再開した源五郎丸は、8月のウエスタンで2試合に登板。シーズン後も巨人とのオープン戦に先発して2回を投げるなど、徐々に体を慣らしながら、2年目の復活を期した。

 だが、その後も故障が相次ぎ、1軍登板なしのまま、86年限りでユニホームを脱いだ。

スライディング練習中に脱臼

 新人王候補ナンバーワンと期待されながら、オープン戦直前に負ったケガが尾を引き、わずか5年で現役引退に追い込まれたのが、高畠導宏である。

 1968年、ドラフト5位で南海入りした高畠は、キャンプ地でも“ノンプロの4番”の名に恥じず、右に左に鋭いライナーを飛ばして即戦力をアピール。入団発表の席で「目標の人」に挙げられた選手兼打撃コーチの野村克也も「ほんまあいつは野球が好きや。練習でも人一倍やっているし、夜の素振りも欠かさん。やはり並みの選手とは違うわい」(週刊ベースボール3月18日号)と一目置いた。

 ところが、オープン戦直前の2月26日、キャンプ地・呉二河球場に隣接する陸上競技場の砂場で、中大の先輩・穴吹義雄と二人一組になってスライディングの練習中、勢い余って左肩を打撲し、脱臼してしまう。

 今なら手術が必要な重症にもかかわらず、周囲の期待に応えようと無理を重ねた結果、ついにはボールを投げることすらできなくなった。

 同年はシーズンの大半を2軍で過ごし、1軍出場26試合、打率.147に終わる。2年目以降も肩は良くならず、3年目から前出の野村監督の勧めで、代打の切り札に。70、71年と2年連続打率3割以上をマークしたが、肩を庇うあまり、手首も痛め、72年限りで現役引退。28歳でコーチになった。

 その後はロッテ、ダイエーなど6球団でコーチを歴任し、落合博満、西村徳文、小久保裕紀らを指導。多くの選手たちの才能を開花させたことから、“伝説の打撃コーチ”として名を残した。

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