師匠北島三郎に出会って開けた歌手への道 40年以上を経て独立 新たな思いを込めて歌う「原田悠里」

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第1回【“歌手になりたい”夢を抱きつつ、上京して教師に…「原田悠里」の演歌歌手人生】のつづき

 歌手の道を目指して上京しながらも、なかなか思う道を進めずにいた原田悠里(70)。だが栃木放送で知り合った人に誘われた北島三郎の舞台公演で、歌手への道を改めて思い出し、北島音楽事務所へ飛び込んだ。曲折を経たが、ようやく歌手・原田悠里の第一歩が記されることとなった。

(全2回の第2回)

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藤純子の絶え絶えの息遣いを参考に

 北島の舞台を見て、歌の素晴らしさを改めて思い知った結果、取った行動は、北島音楽事務所へのデモテープ送りだった。

「カセットテープに八代亜紀さん、青江三奈さん、岸洋子さんらの歌を吹き込んで事務所に届けました。決して上手くはなかったし、ぎこちなかったと思いますが、事務所の専務に『うちに来てみるか』と言われて。お弟子さん希望の方が数多いる中で、当時の事務所はもんた&ブラザーズさんや大橋純子さんも所属していましたから、もともと声楽をやっていたことで面白がってもらえたのかなと思いました」

 1982年6月、「俺に咲いた花」でデビュー。所属するキングレコードも総力を挙げて売り出したが、結果は芳しいとは言えなかった。翌年に「命かけても」、そして1984年には「晩愁」「さよなら」と2枚のシングルを発売したが売上は芳しくなかった。

「そうした頃に『木曽路の女』が来たわけです」

 1985年9月、デビューから3年が過ぎた5枚目のシングルだった。作曲した伊藤雪彦にレッスンしてもらい、藤純子と高倉健が共演した「緋牡丹博徒」シリーズの映像を見せられた。伊藤は息絶え絶えに呼吸する藤の演技を見せながら、「息を大切にしなさい」とアドバイスを授けてくれた。出だしの「雨にかすんだ…」の部分は、それまでなら力強く歌い上げていたところだが、伊藤の狙った通りの息をうまく使った歌い方になっている。女性らしさ優しさが出たことが受けたのか、曲は大ヒット。演歌歌手・原田悠里の礎を築き上げた。1999年に出した「津軽の花」では念願のNHK紅白歌合戦にも出場。日本レコード大賞では優秀作品賞も獲得した。

大きすぎた師匠

 師匠の北島は、事務所にいた当時より、独立した今の方が大きさを感じるという。

「近くにいたときは大きすぎて、本当の大きさが見えていなかったと今になって思えます。紅白など何度かご一緒させていただいた際には『良かったよ』と声をかけていただいたこともあります。長く歌手を続けている中では沈んでいた時期もあるのですが、自分では明るくしているつもりでも呼び出されて『辛いときこそ我慢どき。そこを乗り越えればいいときが来るんだよ』とおっしゃっていただきました。男性のお弟子さんとは違って、女性陣には気を使って直接怒られることはなく、マネジャーや奥様を通じて伝えられることがほとんどでした。本当は直接怒られたかったですね(笑)」

 一度は「家族で死のう」とも娘に言葉を投げた父だったが、「木曽路の女」でヒットした娘のCDをこっそり買うなど、陰ながら応援していた。父が亡くなった際に出てきた手帳には、手書きで「木曽路の女」と、北島の代表曲の一つ「函館の女」の歌詞が手書きで几帳面につづられていたという。

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