“歌手になりたい”夢を抱きつつ、上京して教師に…「原田悠里」の演歌歌手人生

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

教員免許は横浜で ついに上京

 教員採用試験を受けるにあたって、地元の熊本で受験する選択肢もあった。だが歌手になりたい夢は消えておらず、「上京して試験を受ける」という一択しかなかった。

「地元に帰って就職すると思っている父には、大学を代表して出る声楽コンクールの日と受験日が重なっているから、熊本の試験は受けられないと告げました。日程が重なったのは本当ですが、地元に帰ったらもう歌手になる目はなかった。大学の先生からは鹿児島に残れば進路を応援してあげるとも言われたのですが、そちらも興味がありませんでした。結局、神奈川県の横浜市の試験だけ受かったんです。父は私の大学時代のコンクールやオペラでの活躍を見ていましたから、2年間、教師をしながら声楽の勉強をしたいと言って納得してもらい上京しました 」

 勤務先の小学校は音楽専任教師に。担任を持たなくてもいいという気楽さを選んだ。大学ではソプラノ専攻で、モーツァルトの「魔笛」では夜の女王という難役をやらせていただいたりしたが、クラシックの世界で生きていける自信はなかったし、そんな夢はなかった。

 ただ「ひばりさんの歌を歌おうと思っても、ヘリウムガスを吸ったような高い声になってしまう。そこでカンツォーネ教室に行って、発声を変える練習をしました。その教室の先生にまた夜の世界のアルバイトを紹介されたんです」

 当時は大らかな時代で夜のバイトを続けながら、2年間の教員生活を過ごした。辞めてからは、知り合いから紹介され、栃木放送でラジオのレギュラー番組を持つなど忙しくさせていただいたが歌手になる道は見えてこなかった。

「一度、『あなたのような歌手はアルバムでデビューしなきゃ』と話をもちかけられ、アルバム制作費に200万円を求められました。後から詐欺と分かりましたが、お金を用立てようと父に無心したんです。すると父がいとこを連れて上京してきました。『約束の2年を過ぎても帰ってこないのに金を寄越せとはどういうことだ!』と。熊本に連れ戻しに来たんです」

 父に「勘当する」と言われても動揺しなかったが「もう家族みんなで死のう」といわれるとさすがにこたえた。なかなか進展しない中、母が呼び出され、私の暮らしぶりを見た母が「よしみは好きなことを一生懸命やってるだけだから。浮かれているわけじゃないし、もう少し見てあげよう」と父を説得してくれた。

 父の背中を見送ってしばらくしてから、栃木放送で知り合った人物から北島三郎の舞台に誘われた。それが原田の人生を大きく動かすことになる。

 ***

 ついに、北島三郎にかかわる最初の機会を得た原田。第2回【師匠北島三郎に出会って開けた歌手への道 40年以上を経て独立 新たな思いを込めて歌う「原田悠里」】では、師匠北島や、もう一人の師匠といえる二葉百合子らについて語っている。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。