“歌手になりたい”夢を抱きつつ、上京して教師に…「原田悠里」の演歌歌手人生
「木曽路の女」や「津軽の花」などのヒット曲で知られる演歌歌手の原田悠里(70)。最新シングル「春待酒」では自身が歩んできた演歌の道を、カップリングの「ノクターン~黎明~」では大学で学んだクラシックの道を表現した。恩師である北島三郎の事務所から独立して今春で3年目。歌手・原田悠里はいかにして創り上げられたのか。
(全2回の第1回)
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【写真】教員時代、デビュー当初の初々しい姿 ほか 貴重写真で振り返る「原田悠里」の音楽人生
ひばりの曲に歌心を掻き立てられ
熊本県本渡市(現・天草市)出身。小さな街だったが、お隣に住む県議会議員が経営していた映画館とも芝居小屋ともつかない施設があった。映画や芝居のたびに町内に流れる歌謡曲に歌心を掻き立てられた。
「3歳頃からの記憶があります。映画館といっても当時の田舎のことですから、上映日は土日などに限られていて。美空ひばりさんの歌が流れてきたりしてときめいていました」
父は歌が嫌いと言っていたが、逆に母は歌が大好きで、ミカン農家での作業を終えた後でも映画館に行くことを楽しみにしていた。そんな母の血を受け継ぐも、内弁慶だったため、人前で歌うことはしなかった。ただ祖父の前だけは喜んで歌った。
「他の孫より私をかわいがってくれて、歌うととにかく褒めてくれるんです。ひばりさんの『港町十三番地』を歌うと『(ひばりと)いっちょう変わらんごたる』(ひとつも変わらないね)って」
「先生になれ」と父の言葉に従い大学進学も、虎視眈々と
歌手になりたいという気持ちは芽生えていたが、その気持ちを知ってか、父はブランコで娘の背中を押すたび、「学校の先生になれ」と言っていた。一方、小学校では歌手に対する夢を周囲に語っていた。
「以前、小学校1年のときの担任の先生にお会いしたとき、『よしみちゃん(本名)は学校の先生か歌手になりたいって言ってたもんね』と言われて。自分が周りにそんな風に言っていたことに逆にびっくりしました」
天草高校時代は、大学の教育学部に進学するためだけの地味な3年間だった。部活動で何をやっていたかすら覚えていないという。高校2年時の修学旅行にも行かなかった。胸の内では、どうやって県外の大学に行くか、どうしたら将来的に東京へ行けるかを考え続けていた。
大学は鹿児島大教育学部音楽学科に進学し、県外脱出に成功した。そして大学3年時の夏休み、“大事件”は起こる。
「4年生になったら忙しいから東京で1カ月過ごそうと、親友にも告げず独りで上京したんです。夏休みは地元に帰ってくると思っていた両親にしてみれば、娘から何の音沙汰もなく、大学の学生課に尋ねても行方が杳として知れない。誘拐されたのではないかなどと大騒ぎになったようです(笑)」
羽田空港に降り立ってすぐに買った新聞に載っていたのはキャバレーの求人広告。電話して、1カ月住み込みで働くことにした。のんびりした暮らししか知らない田舎の娘にとって仰天する世界が待っていた。
「お客さんが『熱海に行こう』って。どんなところに行くかも知らずに車に乗ったら、泊まりと聞かされて。まだ生娘でしたから、高速道路で『降りる』と言って、ようやく帰してもらえました。それでもお店のお姉さま方に可愛がっていただいて、のびのびと過ごし初めてのパーマをかけて鹿児島に戻ったんです。もう友人たちは色々な意味で唖然としていましたよ」
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