【べらぼう】蔦重が励ます美しい遊女たち… その大半を襲った「梅毒」のおぞましい実情
患者の7~8割は梅毒に感染していた時代
そして江戸時代。まともな避妊法がほとんど存在しなかったこの時代には、梅毒などの性病に感染する確率はきわめて高く、医学者である鈴木隆雄氏の『骨から見た日本人』(講談社学術文庫)によれば、江戸時代の人骨調査の結果では、梅毒患者はなんと54%にも達すると推計されるそうだ。また、『解体新書』の著者として知られる医師の杉田玄白は、自身の回顧録『形影夜話』に、患者1,000人のうち700~800人は梅毒患者だったと記している。
ただでさえ、これだけ蔓延していた状況下である。ほぼ毎晩のように行為をしなければならなかった吉原の遊女たちの梅毒への感染率は、きわめて高かったようだ。ほぼ全員が感染していたのではないかと見る向きもある。実際、江戸時代にも、「すべての遊女が初年のうちに梅毒を患う」といわれていた。
感染すると、最初は局部に痛みが生じ、発熱や関節痛などの症状が出る。進行すると次第に皮膚に発疹が現れ、それが全身の腫瘍に発展。さらには髪の毛が抜け落ちるなど、見た目にかなりの影響をきたした。
さらに進むと、結城秀康のような「鼻欠」や「鼻腐」になる。すなわち、鼻の周辺にゴム腫ができ、骨や皮膚の組織が壊れて、ついには鼻が削げてしまうのである。そして、最後は心臓や血管にまで感染症が広がり、やがて死にいたった。ポピュラーであるわりには、あまりにも怖い病気だった。
ただ、梅毒は初期症状ののちに3年程度の潜伏期間に入る。その間は他者に感染することもなかったので、医学知識がない当時の人たちは、完治したものと認識したという。
しかも、こうしていったん治れば(それは誤解なのだが)、二度と罹患しないものと信じられており、このため、梅毒を経験しながら治まっている遊女は、商品価値が高かったのだという。しかし、現実には何年かして症状が再発し、進行していったのである。
遊女の享年の平均は22.7歳
遊女が梅毒に感染して引きこもることを「鳥屋に就く」と表現した。梅毒が原因で髪の毛が抜けることを、鳥の羽が抜け替わるのにたとえたのだそうだ。ただし、同様に「鳥屋に就く」のでも、楼主(妓楼の主人)の別荘で療養できればだいぶマシだったようだが、そういう遊女は例外だった。
歴史研究者の高木まどか氏の著書『吉原遊郭』(新潮新書)によれば、「大門を出る病人は百一つ」(吉原の大門から出られる病人は百人に一人)という言葉があったように、遊女でも位が低かったり回復の見込みが低かったりすると、妓楼内にもうけられた薄暗い一室に押し込められ、ほとんど看病もされず、食事すら満足にあたえられなかったという。ちょうど『べらぼう』の第3回で短時間ながら映し出されたのは、そんな遊女たちの様子だった。
当時の梅毒は不治の、しかも死にいたる病だった。こうして命を落とした遊女たちは、江戸に親がいる場合は引き渡されたが、親元が遠国だった場合は、粗末な棺桶に入れられ、三ノ輪の浄閑寺(荒川区南千住)や、吉原につながる日本堤の上り口にあった西方寺(豊島区西巣鴨に移転)に葬られた。
吉原など江戸の廓の裏側を実地調査した往年の歴史学者、西山松之助氏の著書『くるわ』によれば、「投げ込み寺」として知られていた浄閑寺の過去帳には、この寺に遺体が運ばれた遊女の享年の平均は22.7歳だった、と記されているそうだ。
「苦界十年」といわれた年季が明けるか、だれかに身請けされるかしたのち、長生きした遊女もいただろう。しかし、若死にがあまりに多かった事実に変わりはない。彼女たちは梅毒への感染リスクがきわめて高い、文字どおり命を削る仕事を、過酷なスケジュールで免疫力を低下させながらこなしていた。それが、あの華麗に着飾った遊女たちの、悲しい実情だったのである。
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