【べらぼう】蔦重が励ます美しい遊女たち… その大半を襲った「梅毒」のおぞましい実情
梅毒に苦しむ遊女たちの姿が描かれた
客が減った吉原にかつての賑わいを取り戻したい、と願う蔦屋重三郎(横浜流星)の奮闘ぶりが描かれているNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』。1月12日放送の第2回「吉原細見『嗚呼(ああ)御江戸』」では、吉原のガイドブック「吉原細見」に蔦重が工夫を凝らすところが描かれた。
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続いて、第3回「千客万来『一目千本』」(1月19日放送)では、蔦重は吉原の遊女たち120人余りを生け花に見立てた画集『一目千本』を発案。はじめて蔦重自身が版元となって出版し、大当たりしたおかげで、吉原がまさに千客万来となる様子が描かれた。
この出版にあたっては、遊女たちを励まし、うまく乗せて、彼女たちに入銀(費用を負担させること)させた蔦重だったが、結果として、客も増えて遊女たちにも十分な見返りがあるという描写だった。
しかし、史実の吉原は表面こそ華やかでも、常に闇がともなう世界だった。実際、『べらぼう』の第3回でも、きく(かたせ梨乃)という遊女出身の女将が営む、吉原のなかでも場末の河岸見世にある「二文字屋」の様子が描かれた。映し出されたのは、体の各所に赤い発疹が出て苦しんでいる遊女が何人も、狭い部屋に押し込められている様子だった。この病気は梅毒だろう。それは吉原の遊女たちのあいだに蔓延し、彼女たちを短命に追いやった性病だった。
戦国武将のあいだで流行した
梅毒とは一般に、コロンブスと乗組員がアメリカ大陸からヨーロッパに持ち込んだものだとされてきた。しかし、それ以前からヨーロッパに存在したという説もあり、起源については確定していない。いずれにせよ、1495年にフランス軍がイタリア半島のナポリに侵攻した際、フランス軍のあいだで発生したことは明らかで、それを機にヨーロッパに広く拡散したようだ。
日本ではじめての症例は、京都の医師の竹田秀慶が記した『月海禄』のなかに見え、永正9年(1512)、京都で「唐瘡」または「琉球瘡」が流行した旨が記されている。この時点では、日本にまだヨーロッパ人は到着していないが、倭寇が大陸から持ち帰ったか、明との交易が盛んだった琉球から堺や博多などの商人が持ち運んだ可能性がある。
日本はちょうど戦国の世であった。戦国武将は明日をも知れぬ身だったからだろう、女性関係が奔放だったケースが多かったので、感染するケースはままあったようだ。
著名なところでは、豊臣秀吉の子飼いで、築城の名人として知られた加藤清正、徳川家康の次男の結城秀康、前田利家の長男の利長、豊臣政権の五奉行のひとり浅野長政の長男の幸長、それに、徳川家康の娘婿で姫路城をいま見られる姿に大改修した池田輝政……。
そのいずれも、一次史料ではないながらも、梅毒で死んだという記述が残る。なかでも33歳で命を落とした結城秀康は症状がかなり深刻で、末期症状として知られる鼻の欠損にまで進行してしまったと伝わる。
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