「三菱銀行立てこもり事件」強行突入までの緊迫ドキュメント…“犯人狙撃”で解決も「本部長」が最後まで明らかにしなかった“重要情報”とは
狙撃はやむを得ない
発射された8発のうち、3発が命中していた。これは、全員が梅川を狙ったということではなく、人質との距離を詰めさせないために、警察側の発砲には威嚇射撃もあったことが影響している。梅川は大阪警察病院に搬送されたが、同日午後5時43分、脳挫傷などで死亡した。頭部の被弾が致命傷になったという。
午前11時、住吉警察署の講堂で記者会見が開かれた。「もっと早く強行突入の措置は取れなかったのか」という記者の質問に、吉田六郎本部長はこう答えている。
「人質に危害を加える恐れのある限り、それはできませんでした。被疑者は女性を机の上に座らせて、遮へい物としていたし、後ろにも人質を配置していましたから、そのような状況ではかなりの被害がでるものとみて、状況が変わるのを待っていたんです」
犯人狙撃は正当行為であることを吉田は強調した。射殺したことに対する世論の批判はほとんどなかったが、大阪地検は吉田へ事情聴取しようとしたものの、吉田は拒否し、行われなかったという。事件から20年後の取材で、吉田はこう答えている。
「猟銃と短銃をわきに置いていた梅川の両手を撃つのが一番よかった。突入した警官はそれができる実力をもっていた。しかし、それが頭にあたった。とっさのもんだし、今でもよくやったと思っている」(前出・産経新聞)
吉田の毅然とした態度を物語る、もう一つのエピソードがある。会見の席で、
〈今でも記憶に残るのが、取材陣の質問に対する最後の答えだ。
「6人の狙撃隊が一斉に発射したが、だれの弾丸が梅川に命中したかは言えない」
特捜本部は梅川の死後、遺体から摘出した弾丸を鑑定したが、その結果は最後まで公表しなかった。「(狙撃隊の)的確な行動があったから新たな犠牲者を出すことなく、人質全員の無事救出に成功したのだ。彼らは殺人犯ではない」と、ある捜査幹部が後日、私に漏らした言葉には本部長発言の意図が読み取れた〉(『記者たちの関西事件史 昭和54年~平成22年』産経新聞社著・光村推古書院)
時代は平成から令和に変わった。この事件以降、警察官が立てこもり犯に銃撃される事件は起きているが、三菱銀行事件と同じような事件が起きたらどう対処するのだろうか。
【第1回は「人質の耳を削ぎ落し、服を脱がせて“人質の盾”に…「三菱銀行人質事件」残虐にして猟奇的な“犯人”と“大阪府警”息詰まる42時間の攻防」事件直後から動いていた特別検挙班の行動】
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