「三菱銀行立てこもり事件」強行突入までの緊迫ドキュメント…“犯人狙撃”で解決も「本部長」が最後まで明らかにしなかった“重要情報”とは
猟銃を手に三菱銀行北畠支店(当時)に押し入り、行員2名と警察官2名を射殺。発砲を繰り返しながら他の行員にも重傷を負わせ、女子行員の服を脱がせたり、男子行員の耳を切り取らせたりするなど、猟奇的な側面からも日本犯罪史上に残る残虐な事件――昭和54年1月26日に起こった「三菱銀行猟銃立てこもり事件」(以下、三菱銀行事件)。発生から3日目の朝、ついに大阪府警は動く(全3回の第3回)。
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近づいた“その時”
当時、大阪府警刑事部長だった新田勇氏は、三菱銀行事件で「突入、犯人狙撃」という最終決断を下すにあたり、
〈「指揮官は常に頭脳を明せきにして、決断しなければ」といったん官舎に戻り、衣服を整えて熟慮。現場に帰って命令を発した冷静、沈着さは今も府警内部での語り草となっている〉(産経新聞1989年7月1日付東京朝刊)
同じく、大阪府警本部長だった吉田六郎氏。事件から20年後に受けた取材で、当初は犯人の生け捕りにこだわっていたがというが、
〈説得が不調に終わり警察官を突入させる場合は、「特殊訓練をやっている射撃のプロとしての精鋭部隊を使いたい」と考えていた〉(産経新聞1999年1月24日付大阪朝刊)
昭和54年1月28日――。
事件発生から3日目となった、人質の体力は限界だった。銀行内には楠本警部補と前畠巡査や支店長ら犠牲者の遺体がそのままになっている。人質にトイレの使用を許可したものの、梅川は市ロビーに新聞紙を広げ、そこに小便をする。暖房の効いた店内。たちこめる異臭も人質を苦しめているだろう。
梅川にも疲れの色が見え始めていた。楠本警部補の遺体から奪ったけん銃を持ち、うつらうつらする姿も確認され始めた。「密室の支配者」といっても、人質の監視、警察への対応を一人でこなさなければならない。必ず、疲れはくるはずだ――。
シャッターに開けた偵察孔から、捜査1課特殊班員による銀行内部の視認作業は続いていた。そして梅川が陣取る支店長席から向かって右側(東側)のCDコーナーの隙間からは、警備第二課員が交代で梅川の様子を探っていた。特に彼らに課せられた任務、それは“その時”に備えて、梅川の行動形態やクセを細かく観察することだった。
そして“その時”は確実に近づいていた。当初から「被疑者狙撃が最も有効な対策」として、現場に待機していた特別検挙班に最後の出動命令がくだることになったのだ。
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