人質の耳を削ぎ落とし、服を脱がせて“人質の盾”に…「三菱銀行人質事件」残虐にして猟奇的な“犯人”と“大阪府警”息詰まる42時間の攻防

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46年前のあの日――

 昭和54(1979)年1月28日。午前5時14分――。

 大阪市住吉区にある三菱銀行北畠支店(当時)2階に設けられた、大阪府警・現地捜査本部の電話が鳴った。捜査員が受話器をあげると、男の勢い込んだ声が聞こえてきた。

「おいっ! なんで言うた通り飯を持って来んのか。朝刊をなぜ入れんか。人を生き返らせるのは難しいが殺すのは簡単や。言う事が分からんのか。今、7時15分やのに、なぜ朝刊入れんか」

 捜査員は冷静に言った。

「いま、5時15分や」

「なに、いま5時15分か。わしは7時15分と思っていた。それならわしが間違いや。その点は謝る。しかし、お前のそのモノの言い方はなんじゃい。出て来い。ぶち殺してやろうか。女子行員3人を釈放するから、お前、代わりに降りて来い。それに、けん銃の出来も悪い。2丁のうち1丁は撃鉄のバネがつかれてるので使われん」

「今後、どうするんや?」

「そんなこと言えるか! あとでまた伝える」

 最後の交信となったこの電話の3時間半後、男は6人の警察官から銃弾を受け、死亡した。約42時間におよんだ監禁がようやく終わった――。

 2025年は、「昭和」でいうと100年の大きな節目となる。社会を揺るがせた大きな事件や流行、文化など、象徴的な「出来事」を振り返る。第1回は、46年前に起きた「三菱銀行猟銃立てこもり事件」(以下、三菱銀行事件)である(全3回の第1回)。

「思い出すことはない」

 2004年3月。総務部長で大阪府警を定年退職した松原和彦氏は、25年前に自身も関わった三菱銀行事件について聞かれ、こう答えている。

「悲惨。思い出すことはありません」

 同事件では主管課である捜査1課を中心とした刑事部、交通規制などに当たった交通部、広報関係をつとめた総務部に加え、機動隊を動員した警備部も加わり、文字通り大阪府警の総力を挙げた態勢で対峙した。

 松原氏は当時、警備部第二機動隊の警部(訓練指導担当)だった。同事件では「特別検挙班」の指揮官(隊長)として発生間もなくから現地捜査本部に詰め、事件3日目の早朝、巡査長1人、巡査4人と共に犯人の制圧を行った。

〈いろいろ騒がれたが、周囲の反応には極めてクールに振る舞ってきた。今も事件を封印し、決して破ることはない。同僚らは「判断が速くて的確」と評する。隊長として白羽の矢が立った理由でもある〉(産経新聞2004年3月19日 大阪夕刊)

 銀行に押し入り、猟銃を乱射して警察官2名を含む4人を射殺。40人以上の人質を盾にして女性の服は全て脱がせるだけでなく、重傷を負った行員の耳を同僚にナイフで切り取らせる。そして42時間に及ぶ監禁――。

「日本犯罪史上稀にみる残虐で猟奇的な事件であった」(警察庁資料より)

 最後は警察部隊の狙撃により幕を閉じた、昭和史に残る事件をあらためて振り返ってみる。

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