「誕生日には欠かさず電話」「クリスマスには“事実婚妻”との写真を」 アラン・ドロンが終生友情を保った“大物政治家”とは
フランスの極右政党国民戦線(FN、現国民連合RN)の創始者、ジャン=マリー・ルペンが1月7日、96歳で死去した。
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反移民と既成政党批判を掲げてFNを躍進させ、自身も2002年の大統領選の決選投票に残った。一方で「ガス室は第2次大戦のディテール(ほんの些事)だ」など問題発言も多々あった。マクロンと大統領の座を2度にわたって争った前党首マリーヌはその三女だ。
「私は彼のシンパであり続ける」
彼と終生友情を保ったのが、昨年8月に亡くなった俳優アラン・ドロンである。
13年、ドロンは仏政界でのFNの存在意義を認める旨の発言をし、大スキャンダルとなって「ミス・フランス」運営委員会の生涯名誉会長を剥奪された。
だが、ドロンは以前から親交を隠していなかった。
1986年5月、ドロンは芸術文化勲章を授与された際、その授章式にルペンを招いた。文化大臣から受けたばかりの勲章を首にかけ、人目もはばからずに歓談。テレビカメラに写された。
翌春にはブルターニュ地方のルペンの故郷で行われた長女マリー・カロリーヌの結婚式に招かれ、カメラの前でルペンとハグした。
ガス室発言があったのはその9月だが、ドロンは、
「極右は数百万人のフランス人の支持を集めている。私たちは数百万人のフランス人の意見を無視し、過小評価することはできない。彼は長年の友人で、私は彼のシンパであり続ける」
とまで言い放っている。
誕生日には欠かさず電話
FNはアルジェリア戦争の時にドゴールを暗殺しようとした一派が母体で、ルペン自身にとってもドゴール派は政敵。対してドロンはドゴールを崇敬し、選挙では必ずドゴール派に票を投じた。本来は仇敵同士だが、54年にインドシナ戦争に従軍した縁で関係を深めた。ルペンは花形のパラシュート部隊の少尉、7歳下のドロンは不良水兵だった。
父の跡を継いだマリーヌはFNのファッショ的な負のイメージの払拭に努め、大統領選の有力報補となった2015年、父をFNから除名。ドロンはこれに激怒し、彼女がマクロンとの一騎打ちとなった大統領選の決選投票を棄権している。
ドロンは、ルペンの誕生日には欠かさず電話し、選挙の際には慰労、激励したり、祝福したりした。
毎年クリスマスカードも送り、最後となった22年には、ドロンが連れ合いのヒロミさんと写った写真に「いつも忠実でいる」という小さなメモを添えた。