死者の名前を出すことに誰の許可が必要なのか 養老孟司さんが心配する「個人情報」を尊重し過ぎる社会

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 ハラスメントという言葉が定着し、弱者が声を上げやすくなったのが良いことなのは間違いない。一方で、何でもハラスメントとされる風潮への違和感を抱く人は少なくない。

 見解が分かれるテーマの一つが「個人情報」へのスタンスだろう。

 社内で「彼氏(彼女)いるの?」がNGなのは常識となっているとして、既婚か否かを聞くこともNGとされつつある。しかし本当にそれはダメなことなのか?

 詐欺など犯罪に使われることもあるので、個人情報の扱いには注意すべき、という建前に異論を挟む人はいない。しかし、“どこまで”気にすべきなのかは人によってかなり考え方の違いがあるようだ。

『バカの壁』で知られる養老孟司さんは、昨今の「個人情報」に過敏な風潮に違和感を覚えているようだ。たとえば事故や災害で亡くなった人の個人名まで、遺族に配慮して報じない、というのはいいことなのか――。養老さんはこうした風潮の背景には、共同体のあり方の変化があると考えている。

 新著『人生の壁』の中の「死亡情報は誰のものか」という項は、次の一文から始まる。

「死亡や結婚といった情報について、個人のものだという意識が強まっているのも、共同体の崩壊と関係があるのでしょう」

 日本では戦後、家制度を否定したあたりから、「個の尊重」への動きが強まり、共同体が崩壊していった、しかしそれは本当に皆が望むことだったのか、いいことづくめだったのか、というのが養老さんの問題意識である。

 どういうことか。養老さんの話に耳を傾けてみよう(以下は、新著『人生の壁』から抜粋して引用したものです)

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仲の悪い人も「身内」扱いか

 近頃は、災害で亡くなった人の氏名を公表するのにも関係者の了承が必要だという意見まであるようです。しかし、関係者とは誰なのか。仲が悪い親族も含まれるのか。

 共同体が生きていた頃は、「私」の身体は私一人のものではなく、家族のものでもなく、どこかでみんなのものという意識がありました。その人がいなくなれば当然、みんなが知るべきだと考える。

 しかし共同体を崩壊させていった結果、「私」は私一人の所有物という意識が極めて強くなりました。だから、私に関する情報も私のものだ、となる。

 でも、誰かが亡くなったという情報をオープンにして、困る人がいるのでしょうか。あるいは得をする人がいるのか。

 結婚も同様で、籍を入れるというのは社会的な行為なのだから、隠すのはおかしい。私生活を何でもオープンにする必要はまったくないけれども、本来、共同体の中では共有すべき情報です。それが嫌ならば事実婚にすればよいのです。

 これらも共同体を壊したことの影響です。共同体で持っていたものを全部、個人に押し込めることにした。

 気になるのは、それが本当にみんなの望む社会なのか、という点です。何でも個人のものとする風潮に異を唱えれば、古いと言われるのかもしれません。しかし、本気でそういう社会がいいと思っているのでしょうか。

 私なんか、プライバシーも何もあったものではありません。この前、都内で歩いていたら、見知らぬ女性が、「ああ、今養老さんが目の前を通り過ぎた」とスマホに向かってしゃべっていました。なぜ実況中継されなければいけないのか。

不信はコストのもと

 共同体を解体することで、実は余計なコストがかかっていることも忘れられがちです。たとえば怪しい人の情報は、SNSが無いにもかかわらず、必要とする人には、早くに広まったものです。あいつには気をつけろ、と。だから、「何、お前、あんなやつに引っかかったの。駄目だよ」という話になる。

 共同体がしっかりしている社会では人間関係が信用に基づいているので、その分、余計な手間をかけなくて済む面があります。正反対がアメリカで、だから弁護士が忙しい。

 そういう社会では保険会社が大きくなります。結局、みんながそこにお金を使わないといけないと考えるようになる。こうしてコストがかさむ。

 あらゆることで契約書の類を求められるようになったのも、似たような話です。私が最初に本を出した頃、1980年代には出版に際しての契約書は交わしていませんでした。私が軽く見られていたわけではなくて、それが普通だったのです。

 いつの間にか、本を出すにあたっては出版契約書を交わすようになりました。それもどんどん細かい取り決めが増えていきます。しかし、私自身はそんなものにちゃんと目を通したことがありません。こんなにいろいろ決める必要があるのだろうかと思うくらいです。この場合、相手を信用していれば基本的には必要がないものに手間をかけているわけです。

 契約書を整える、決めごとを言語化するといえば、何となくきちんと仕事をしている感じがするでしょうが、実際にはすごく無駄なことをしているのかもしれないのです。

 不信はコストを生みます。

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 誤解のないように捕捉すれば、同書の中で養老さんは「何でもオープンにせよ」とか「戦前の家制度に戻せ」と主張しているわけではない。

 戦前の体制や昔のムラ社会の再現を望む人はもはやいないだろう。しかし共同体を解体していった“副作用”に目を向けてみることも大切なのかもしれない。

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