「30歳で子供もいることを理由に代表になれなかった」 悔しさを語らず育てた教え子が“パリ五輪銀メダル” 飛び込み界をけん引した「馬淵かの子さん」指導者としての人生

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“五輪選手を育てたい”と指導者に

 五輪選手を育てたいと志し、日本初の飛び込み用屋内プールを備えたクラブ、JSS宝塚スイミングスクールを79年に開く。長女のよしのさんを半ば強制的に鍛えた。親子げんかが絶えなかったというが、彼女は84年のロスに出場を果たす。

 馬淵さんの下で育ち、96年のアトランタ以降6度も五輪に出場した寺内健さんは言う。

「“6カ月の時から知ってるよ。浅黒く強そうな子だった”と言われました。かの子先生がいなければ私の飛び込み人生はありません」

「悔しさや手柄を語ることはなかった」

 飛び込み界では中国が台頭、最新技術は指導できないと、中国出身の蘇薇(スーウェイ)さんを89年、コーチに招く。

「コーチの指導は厳しくてへこたれそうになる。かの子先生が、何げない言葉をかけて下さり心の支えになった。逃げ場所を作ってくれたのですね」(寺内さん)

 蘇薇コーチは98年、日本に帰化。人柄に感銘を受けた馬淵さんの姓を使いたいと、馬淵崇英(すうえい)を名乗った。

 寺内さんは続ける。

「かの子先生は五輪のメダルが見たいと話される一方、“結果が全てではない、応援される人になりなさい、競技は一人でやるのではない、支えられていることを忘れてはいけないよ”とおっしゃった。御自身の悔しさや手柄を語ることはなかった」(寺内さん)

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