“右翼雑誌”と呼ばれても「WiLL」「Hanada」が絶大な支持を集めた理由…元編集部員が明かす「他の月刊誌ではありえない」名物編集長の仕事術
就職氷河期と情報工学
「編集後の映像を見られるなら取材を受ける」と梶原氏は回答したが、番組側が「約束できない」と拒否して決裂。後日、若い男性2人を取材したVTRが放送されたが、ステロタイプな切り口など問題の多い内容だったという。
就職氷河期は1993年から2005年まで続いたと考えられている。2003年の3月に大学を卒業した梶原氏の世代は、氷河期の最後尾に位置していた。
「私は史学科の学生で、中国近世史を専攻していました。秀吉の朝鮮出兵などを通し、明の軍政などを調べていたのです。そして当時の中央大学は就職氷河期の対策として『副専攻』という制度が整備されていました。私のメインの専攻は中国史ですが、副専攻になればと情報工学を選択したのです。それでC言語などを習得できたので、就職活動ではSE(システムエンジニア)職の面接を受け、とあるIT関連企業に入社しました」
実は「諸君!」を発行する文藝春秋や、「SAPIO」の小学館など、入社試験を受けようとエントリーシートを入手したこともあった。だが「おそらく入社はできないし、万が一、入社できても全く興味を持てない雑誌の編集部に配属されたら困惑してしまう」と、保守雑誌以外の志望理由が書けなかったので応募を止めた。
自分の雑誌と思えた「WiLL」
「IT企業に入社して昼休みに『SAPIO』を読んでいると、同僚が『何、その雑誌!?』と少し驚いたような表情を浮かべたことがありました。私が入社した2003年4月からおよそ1年半後の、04年11月26日に『WiLL』が店頭に並びました。創刊号の特集は『厄介な国、中国』でしたが、すでに複数の雑誌を読んでいたので、『とりあえず様子見』と。2号、3号も同じで、翌05年2月に発売された第4号を購入して読んだところ、すぐに雑誌のファンになりました。この号の特集タイトルは『朝日新聞を裁く!』で、実は1号から3号までは売れ行きが振るわず、4号で大ブレイクしたことを後で知りました」
梶原氏の『「“右翼”雑誌」の舞台裏』には、なぜ「WiLL」の第4号が売れたのか、興味深い分析が記されている。該当部分を引用しよう。
《当時筆者は読者の立場だったが、鮮烈な印象を受けたのを覚えている。すでに『諸君!』や『正論』で再三にわたり朝日新聞の批判は展開されていたが、やはりこれらとはどこか違う、企画の立て方、タイトルのセンス、読みやすさなど様々な点で新鮮さが感じられるものだった。『諸君!』『正論』にも老舗の良さはあったのだが、後発の『WiLL』は筆者にとってまさに「自分の雑誌」だった》
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