“右翼雑誌”と呼ばれても「WiLL」「Hanada」が絶大な支持を集めた理由…元編集部員が明かす「他の月刊誌ではありえない」名物編集長の仕事術

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保守系論壇誌、拉致問題、反日デモ

 梶原氏は埼玉県立坂戸高校から中央大学文学部に進学。大学での講義や読書を通じ、徐々に知見を広げていく。そして自分が幼い頃に父親の職業を批判されたり、マスコミの報道に“違和感”を覚えたりしたのは、憲法9条や台中関係、韓国の対日観といった“保守VS革新”の問題と密接な関係があることに気づく。

 特に大学で梶原氏は、月刊誌の「正論」、「諸君!」、「SAPIO」といった“保守系論壇誌”に出会い、小学生の頃からの違和感が氷解したという。また1998年には小林よしのり氏が『戦争論』(幻冬舎)を上梓し、若者に大きな影響を与えていた。

「『戦争論』は私も読んで考えさせられましたし、太平洋戦争に従軍した祖父も読了すると仏壇に供えていました。また私が大学に入った頃にインターネットが急速に発達し、2002年からブログが、04年にはmixiがサービスを開始しました。このころは社会的にも02年9月、04年5月には日朝首脳会談が開かれ、拉致被害者の日本帰国について話し合いが行われました。ネット右翼の誕生は02年の日韓共催サッカーW杯が大きな影響を与えたというのが通説になっていますが、私個人としては02年、04年の日朝首脳会談や、05年4月に成都、北京、上海で大規模な反日デモが起こり、一部が暴徒化したことのほうに大きなインパクトを受けたと思っています」

工作船の衝撃

 不審船の問題にも梶原氏は大きな衝撃を受けた。2001年12月に起きた九州南西海域工作船事件だ。東シナ海の公海上で海上保安庁の巡視船が不審な船を発見。日本の排他的経済水域(EEZ)内で無許可漁業を行っているなどの疑いがあったことから、巡視船は立ち入り検査の実施を決めた。

 これに不審船は逃亡。巡視船は威嚇射撃を行って強行接舷を試みると、不審船の乗員が小火器やロケットランチャーで攻撃し、激しい銃撃戦となった。その後、不審船は突然、爆発して沈没してしまう。海上保安官の3人が銃弾で軽傷を負ったほか、不審船は全15人とみられる乗組員のうち、全員が死亡したと考えられている(正式に死亡が確認されたのは8人)。

 翌年の9月に不審船の引き上げが実施され、遺留品などから北朝鮮の工作船であることが判明した。特に日本国内用の携帯電話が船内から発見され、北朝鮮が日本の暴力団に覚醒剤を売り渡していたことも明らかになり、大きな話題となった。

 梶原氏はmixiのコミュニティ「『ネット右翼』と呼ばれても」に参加し、自分の意見を投稿するようになった。“若者の右傾化”を象徴する女性ということで、TBSの報道番組「筑紫哲也NEWS23」から取材を依頼されたこともあった。

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