江夏豊や桑田真澄の他にも有名選手が多数…「夢」を捨てず現役最後にメジャーに挑んだベテラン選手たちの“想い”とは

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標高1288メートルの高地になじめず苦しんだ

 35歳でメジャーの入団テストを受け、見事合格をかち取りながら、メジャー登板なしで終わったのが、水尾嘉孝である。

 1991年、ドラフト1位で大洋に入団した水尾は、腰痛や肘の故障に加え、登板前日に打撃投手を命じられて調子を崩すなど、環境にも恵まれず、在籍4年で0勝5敗に終わった。

 95年にオリックス移籍後、仰木彬監督の指示でリリーフに転向すると、伸び伸び野球ができる環境もプラスとなり、97年にチーム最多の68試合に登板するなど、左のセットアッパーとして花開いた。

 登板9試合に終わった2000年に戦力外通告を受けると、西武にテスト入団。翌01年には48試合登板と復活したが、首痛の影響で出番が激減した03年オフに2度目の戦力外通告となった。

 現役続行を望んだ水尾は2球団のテストを受けたが、年齢がネックとなり、不合格に。「だったら、(年齢などに関係なく)実力で勝負できるアメリカにダメもとで行ってやろう」と翌04年3月22日、エンゼルスのテストを受け、合格。年俸33万5000ドル(当時のレートで約3685万円)でメジャー契約を結んだ。

 だが、3Aソルトレークで開幕を迎えた水尾は、標高1288メートルの高地になじめず、高山病による腰痛、首痛、手のしびれなどに苦しむ。最後はランニングも続けられないほど悪化したため、06年2月に引退。メジャーのマウンドに立つ夢は叶わなかったが、「アメリカまで来て野球ができた」ことに満足して、ユニホームを脱いだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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