「国外追放」と脅されて…泣く泣く全日本軍入りした「スタルヒン」 白系ロシア人が日本球界の星になるまで(小林信也)
「国外追放」と脅し
しかし、スタルヒンにとって厄介な動きが東京で始まっていた。後の巨人軍の礎となる全日本軍の結成だ。全米オールスター軍と戦う優秀な選手を全国から集める動きが本格化。甲子園にこそ出ていないが、快腕スタルヒンにも当然、白羽の矢が立った。新聞が本人の同意もなしに〈スタルヒン全日本軍入り〉の一報を出すと、旭川市内が大騒ぎとなった。
「スタルヒンを全日本軍に取られてたまるか!」「スタルヒンを旭川から出すな」、市民の怒りは大変な渦となり、流失阻止が叫ばれた。
その経緯を娘のナターシャ・スタルヒンが『ロシアから来たエース』(PHP研究所)に記している。本によれば、旭川市民はスタルヒンをかくまったが、右翼の大物(頭山満)の命を受けた秋本なる男は決して諦めなかった。秋本は卑劣な手を使った。実はスタルヒンの父親がその前年、過ちから女性を殺害する事件を起こしていた。秋本はそこに付け込んだ。「正式に裁判をすれば、無国籍のスタルヒン一家は国外追放になる」というのだ。彼らにとって何より怖い「国外追放」を盾に脅され、スタルヒン母子は夜逃げするように東京に向かった。
ナターシャは書いている。
〈心から支援してくれていた旭中野球部員にも別れの言葉一つなく、中学を中退してまで、それこそ突如として消えてしまったスタルヒンに対して、市民の怒りは爆発した。(中略)旭川を出るときから肌身離さず持っていた木彫りの熊をだいて全日本軍の一行に合流した少年スタルヒンは、昭和九年一一月二九日、大宮での八回、リリーフで初めてマウンドを踏んだ〉
読売新聞は無失点に抑えたスタルヒンを〈将来恐るべき投手になるであろう〉と報じた。しかし当初は沢村の2番手に甘んじた。球は速いが制球に難があった。四球を出すと内野を守る三原脩や水原茂に「それでもピッチャーか」と怒鳴られ、マウンドでボロボロと涙をこぼした。そんな若き日を乗り越え、スタルヒンは日本球界の星になった。
いま旭川の花咲スポーツ公園にある野球場は、スタルヒン球場の愛称で市民に親しまれている。
[2/2ページ]