「国外追放」と脅されて…泣く泣く全日本軍入りした「スタルヒン」 白系ロシア人が日本球界の星になるまで(小林信也)

  • ブックマーク

「スタルヒンが武蔵野の球場で投げたのよと言っても信じてもらえないの。悔しいから、東京ドームの野球殿堂博物館に行って証拠をもらってきました」

 熱く語るのは武蔵野市に住む、まもなく80歳を迎えるご婦人だ。彼女は古い新聞のコピーを机上に広げた。

〈8月18日、毎日7対大映2。勝投手榎原、負投手スタルヒン。場所・武蔵野〉

 と記されている。

「私見たのよ、その試合。まだ6歳だから、うっすら『見た』って記憶しかないけど、姉は覚えてる。『背が高くていい男だった』って」

 幻の武蔵野グリーンパーク球場は1951年、中島飛行機の工場があった武蔵野市北部(現緑町)に建てられた。現在UR賃貸住宅が並ぶ場所に球場があったと知る人はもう少ない。吉祥寺から近い。今あったらどんなに素敵だろう。

 私は若い頃、地元の識者を訪ね球場の歴史を調べた経験がある。三鷹駅から国鉄(現JR)の武蔵野競技場線も直結していた。

 ところがまず、愛称が長過ぎると新聞記者らに嫌われ、パ・リーグでは「武蔵野球場」、セ・リーグには「三鷹球場」と呼ばれた。さらに、突貫工事で芝生が定着しないまま開場したため、むきだしの関東ローム層の砂埃が激しく舞い上がった。「選手も観客も野球どころではなかった」と証言者たちは口をそろえた。初年度の51年こそプロ野球16試合、東京六大学野球19試合が行われたがその年限りで閉鎖に追い込まれた。

 球場建設が急がれたのは、神宮球場が進駐軍に接収され使えなかったからだ。が、52年に接収が解除され、都区部で試合ができるようになって武蔵野は用済みとなった。都心のファンを捨ててまで都下でやる必要はないという経営判断。当時はまだ三鷹は都心から遠い感覚だった。無念にも球場は56年に解体され、今は跡形もない。

 先のご婦人が夢のように語るスタルヒンの存在を知る人ももはや少ないだろう。

小学生で180センチ超

 プロ野球草創期、沢村栄治と並ぶ巨人の主力投手。36年から44年までの9年間で199勝をマーク。39年には42勝15敗。後の稲尾和久とともに今なお最多勝記録保持者だ。46年にパシフィック(のち太陽)、48年から金星(のち大映)、54年高橋などとユニフォームが変わり、通算303勝176敗で引退した。最多勝6回、5年連続最多勝、通算完封83試合はいずれもNPB記録だ。

 ヴィクトル・スタルヒンは16年、ロシア帝国で生まれ、北海道の旭川で育った。彼の一家は17年のロシア革命の際に革命政府から迫害を受け、シベリアを横断し満州ハルビンに逃げた。25年、日本に亡命し、無国籍の白系ロシア人となる。

 小学生で身長180センチを超えたスタルヒンは、投手として才能を発揮した。旭川中に入り、2年連続で夏の北海道大会決勝に進んだ。スタルヒンは好投したが、2年とも自軍のエラーで涙をのんだ。旭川市民は「来年こそ初の甲子園!」と熱く盛り上がった。

次ページ:「国外追放」と脅し

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。