【べらぼう】一流の絵師を口説いて実現した初の出版物『一目千本』 あふれる蔦重の才覚

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 客が減って不振の吉原をなんとか盛り上げたい――。そう考える蔦屋重三郎(横浜流星)が出版関係の仕事にはじめて携わった様子が、NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第2回「吉原細見『嗚呼(ああ)御江戸』」(1月12日放送)で描かれた。

 それは安永3年(1774)に刊行された、第2回のタイトルそのままの「吉原細見『細見嗚呼御江戸』」で、版元は老舗の地本問屋(江戸生まれの本を出版、販売する本屋)の鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)だった。

「吉原細見」とは、「吉原の歩き方」ともいうべきガイドブックである。吉原全体の地図はもちろんのこと、各町ごとの遊女屋と、そこに所属する遊女の源氏名や位置づけ、揚げ代(遊女と遊ぶ料金)が網羅。ほかにも、客と遊女屋を取り結ぶ引手茶屋や、船で吉原に通う客の送迎をする船宿の一覧まで、まさにすべて盛り込まれた冊子だった。吉原で遊びたいと思う者は必携で、毎年春と秋に刊行されるのがならわしだった。

 そのころの吉原は実際、ひところにくらべて客足が遠のいており、ドラマでは、不振の理由が岡場所や宿場のせいだとされていたが、的を射ている。

 吉原は幕府が公認した江戸唯一の遊郭で、運上や冥加といった税金も納めていたが、その分、遊ぶための料金も高い。それにくらべれば、非公認の私娼街である岡場所や、事実上の遊郭であった江戸四宿(品川宿、内藤新宿、千住宿、板橋宿)ではもっと安く遊べた。このため、吉原の客がそちらに流れていたのだ。

日本文化を特徴づける「見立て」を応用した

『細見嗚呼御江戸』には、「改め」(掲載情報を最新化するべく取材し、記事化する仕事)に携わった者として蔦重の名が載っている。だから、蔦重が制作に関わったのは史実である。なぜ関わることになったか、その理由は定かではないが、ドラマでは、不振の吉原をなんとかしたいという蔦重の思いが動機とされていた。吉原生まれの蔦重がそう考えるのは自然に思われる。

 蔦重による最大の工夫は、ドラマでも描写されたが、静電気発生装置「エレキテル」の製作をはじめ、マルチな才で知られる平賀源内(安田顕)に、序文の執筆を依頼し、実現させたことだった。

 だが、吉原細見『嗚呼御江戸』は、蔦重はあくまでも「記者」として編集に参加したにすぎない。一方、すでに安永元年(1772)には、吉原で茶屋を営む義理の兄の軒先を借りて耕書堂という本屋を開いていた蔦重が、はじめて自身で出版したのが、安永3年の7月に刊行された『一目千本』だった。

 これは絵入りというより、ストレートに画集と呼んだほうが正確な遊女評判記だが、遊女の画はひとつも出てこない。すべての遊女は挿し花に見立てられているのである。

 対象を別のものになぞらえる「見立て」は、古来、日本の文化や芸術を特徴づけてきた。たとえば和歌は、見立ての冴えを競う文芸だったといっても過言ではない。日本庭園が原則として自然の縮景で、石や砂、木などを、山や川、海、あるいは動物などに見立てていることは、周知のことだろう。江戸時代にはこの見立てが、絵画や言葉の洒落遊びとして、さらに広範に取り入れられるようになった。蔦重も遊女の特徴を表すために見立てを応用したのである。

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