授業に集中できないから「キャラもの文具はNG」の理不尽… 子どもの思考停止を招く“不合理な規則”に現役教諭が警鐘を鳴らす
良かれと思って掃除をしたら「余計なことをするな」と怒られた。現役の小学校教諭である齋藤浩氏は、ある日、そう児童に相談されたという。思わず首をかしげたくなる「叱った教師」の言い分とは――。
(前後編の後編)
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※この記事は『学校に蔓延る奇妙なしきたり』(齋藤浩著、草思社)の内容をもとに、一部を抜粋/編集してお伝えしています。
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敵視されるキャラクター文房具
キャラクターが入ったノートや文房具を、校則で明記して禁止している学校はないだろう。だが、実際に文房具類を購入するにあたっては、
「なるべくキャラクター入りのものは避けましょう」
といった指針を学校が出しているケースが多々ある。なぜキャラクターものがダメなのかというと、それらを授業中に見ることで、子どもに落ち着きがなくなるという理屈である。これはどう考えても、キャラクター文房具への冤罪ではないだろうか。
はっきり言えば、落ち着いている子どもはどんな文房具を所持していても落ち着いているし、落ち着きがない子どもは何を持っていても落ち着かない。キャラクターの有無に左右されることなどないはずだ。だが、学校は不文律として、キャラクターものを敵視する。一度キャラクターものを認めてしまうと、予想もしない範囲にまでそれが広がってしまうのではないかという危惧を学校は抱いているのだ。
残念ながら、現在の学校は子どもに自由裁量を認めることを極端に嫌っていて、確実に管理可能な範囲でのみ子どもたちに「自由」を与える傾向がある。こうした、いわば条件付き自由が子どもたちの判断力を奪う結果になることは容易に想像できる。
未来の予測が困難どころか、予測すること自体も無意味かもしれない時代がやってくる。その混沌とした時代を生き抜くには、学校もできるかぎり禁止事項を減らし、子どもたちが自由に判断する経験を積み重ねさせることが重要ではないだろうか。
子どもを信用することができない学校
子どもには正しい判断ができるように訓練する場が必要で、学校こそはそういう場所であるべきなのだ。だが、学校は真逆の場所になってしまっている。子どもに判断させることでワガママな人間に育つという先入観があるせいだ。以前、ある校長に、
「学校生活の持ち物くらい、子どもたちに決めさせましょう」
と提案したところ、強く拒否されたことがある。理由は、
「何でも子どもにまかせると、逸脱がどんどんエスカレートしていく」というものだった。
「私たちが育てた子どもを信用できないようでは、みずからの教育力を否定することになってしまうのではないですか」
さらに問いただしたが、明確な回答はなかった。本音を言えば、子どもたちをそこまで信用することができない、ということなのだろう。だから、キャラクター入りの持ち物は認めないということになる。ただ、そんなことは格好悪くて校則には書けない。だから、不文律というかたちで残っているのだろう。
このように考えていくと、学校生活のいたるところに存在する不文律は、
「子どもを信用してまかせることはしない」
という教員側の秘めた決意の表れにも思えてくる。学校の中心はもちろん子どもであるべきなのだが、学校というムラ社会において子どもは、ムラの規律を乱す異物でもあるということなのだ。
「学校の主役は、みなさん一人ひとりです」
朝会のたびにどの校長も口にしていそうなセリフだが、本当にそうであればキャラクター文房具の禁止などという不文律は不要である。そんなことは、子どもたちが決めればいいからだ。だが本音では、
「たしかに学校の主役は、みなさん一人ひとりです。でも、みなさんにはまだ判断できないことがたくさんあります。そのために、われわれ教員がいるのです。われわれはみなさんが困らないように正しい判断を行なっていきます」
というところなのではないだろうか。ただ、どんな文房具を使うのかさえ子どもに判断させないような環境で、大小さまざまな課題に対応できるような人間を育成できるのだろうか。子どもたちは否応なく狭いムラ社会を出て、グローバルな環境で生きていく存在なのだ。
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