なぜ「ランドセル登校」なのに「遠足はリュック」なのか… 現役教諭も疑問を抱く学校の“奇妙なしきたり”
保護者も疑問に思う「奇妙なしきたり」
そんな不文律にたいして、ときに子どもたちから疑問の声が上がる。
「先生。ランドセルじゃなくて、リュックで登校しちゃダメなんですか……?」
リュックでもいいに決まっている。そもそも、ランドセルの使用は校則ではないのだ。それにもかかわらず、担任は、「ふだんはランドセルにしましょうね」と、ランドセルメーカーの手先であるかのような回答をしてしまう。
「じゃあ、どうして遠足はリュックでもいいんですか」
子どもから重ねて質問があれば、「うーん、遠足は勉強ではないからね……」そんな不可解な回答をすることとなる。学校にはランドセル、遠足の日はリュックという使い分けに論理性など存在しない。だから、教員は説得力ゼロの懸命な説明を余儀なくされるのだ。
これが保護者からの質問だと事態はさらに悪化する。
「先生。校則にはランドセルで登校とは書かれてないですよね。リュックのほうが軽くて、教科書以外にも水筒や折りたたみ傘など、たくさんの物が入ります。ぜひリュックを許可してください」
という要望にたいして、何とか論理的な回答をしようと試みるのだが、うまく答えられるはずがない。学校の不文律は、そのスタート地点からして非論理的だからである。
「一年生のときからランドセルを使っているわけですので、それを六年間使ってほしいと思います」
何とかひねり出しても、その程度。保護者が納得するはずもないが、同じような答えを繰り返す教員に閉口し、結果的に要望が止まるという仕組みである。
学校は「想定問答集」まで用意
とはいえ、こういう質問がくると学校は大あわてだ。関係職員が何人も集まり、その回答でいいのか議論するのだが、そのとき「子どもたちの未来にとって、これでいいのか」ということが考慮されることはない。スクール水着の着用についても、同様の問題が起こる。保護者から、
「スイミングスクールで着用している水着でもいいですよね」
という問い合わせがよくくるが、即座に「ハイ」と言えない事情がある。なぜなら、競泳用の水着はスクール水着ではないからだ。学校としては、過度に体のラインが強調されるものは避けたいということもある。
さらにいうと、スイミングスクールで着用している水着を体育の時間にも使っていいのなら、たとえばサッカー教室で着用しているユニフォームを体育の授業で身に付けてもいいという理屈になってしまう。
そうなると、解釈の幅がどんどん広がり、学校にとって都合が悪いのだ。現在、競泳用の水着については着用を認めている学校も多いようだが、不文律としての禁止は長年にわたって定着していた。実際、隣のクラスの担任が、
「体育の時間に、通っているサッカー教室のユニフォームを着るのを許可してほしい」
という要望を保護者から受けたことがある。返事は「ノー」である。その理由を保護者に説明するにあたっては、この担任ではむずかしいと考えたのか、体育の主任が回答していた。保護者からの電話をいったん切り、考えに考え抜いての再度の連絡である。
「サッカーのユニフォームを許可してしまったら、野球のユニフォームも認めないわけにはいかなくなります。そんなことをしていったら、指定体操着の意味がなくなります」
非論理的な説明に業を煮やしたのか、保護者は通話を切った。サッカーや野球のユニフォームだって、運動に適した素材でできている。なのに、まわりと違う服装で体育の授業に参加するのはスタンドプレーだと学校は判断したのだ。
たびたび不毛なやりとりが繰り返されるうちに、学校側は、「保護者からの問い合わせにはこう回答しましょう」という想定問答集まで用意するようになってきている。学校はどこを向いて仕事をしているのかと思わざるをえない。
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この記事の後編では、引き続き『学校に蔓延る奇妙なしきたり』(草思社)より、学校がキャラクター文具を禁止するのは何故か、正門前の商店だけでは買い食いが許されるのは何故か、といった今も学校に残る「奇妙なしきたり」がなぜ跋扈しているのかについて取り上げている。