「輪廻転生を認めるか認めないかで生き方が変わる」 横尾忠則流“自分という存在の捉え方”とは

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 新年の抱負についてよく聞かれますが、この年齢になると抱負なんてありません。計画のことでしょう。そうね、死ぬ計画ですか(笑)、それもありません。個の領域の問題ではなく天の問題ですからね。

 僕は昔から抱負など縁のないもので、そんなもの考えもしない、思いもしないで生きてきたように思います。その点、大谷選手なんて17歳で70代までの計画を立ててしまうんだから。彼はある程度計画通りに生きていく可能性というか自信があるのかも知れません。

 僕はラテン系なのかな。仮りに計画を立てたとしても、次々壊していくタイプの人間だから。

 それにしても1年はアッという間に過ぎて、その間に肉体も消耗して老化の一途をたどっているんでしょうかね。昨日と今日の顔の変化はわかりませんが、1年前の写真を見ると明きらかに変化しているのがわかります。毎日、自分の姿を写真に撮り、パラパラ漫画みたいに高速再生すると、どんどん皺が増えて痩せたり、太ったり、まるでアニメのように変化するのがわかって、ゾッとすることになるんでしょうね。

 他にも、しばらく会っていなかった人に会うと、やっぱり以前に比べて老けているのがわかるんですが、相手も同じようにこちらを「老けたなあ」と思って見ているはずです。ということはわれわれは時間の中で生きているんですね。もし時間を操作するタイムマシンみたいなものがあって、早や廻しにしたり遅廻しにして自由自在に生きられたら、好きな年齢のところで時間を固定することができるのですが。

 われわれの住むこの物質世界は流動する時間の世界でもあります。だから死が存在するのです。人間の肉体も物質なので、もし死ねないことになると、地球上が人であふれて、大変なことになります。そうならないために人間は上手いこと死ぬようにできて生まれているのです。

 この地球が安定しているのは、時間があることで物質が生成したり消滅したりして上手く人口過密にならないようにバランスがとられているから、というわけです。そのために時間が流れているのです。

 もし時間が停止してしまうと、死後の世界との区別ができなくなります。生きている人より死んだ人の数の方が圧倒的に多いのに、死者は天からバタ、バタと落下してきません。それは死後の世界には時間がないからです。またこちらでいう物質的空間というものがありません。だからいくら死んでも向こうでは人口過密にならないのです。時間もない空間もない、それが死後の世界です。こちらは物質的唯物世界で、向こうにないものがあるのです。だから向こうとこちらが、時間的、空間的にバランスをとるために、向こうは無なんです。無というのはあくまでもこちらの概念で無なのです。だからもしかしたら向こうの概念でいえば無でなく有かも知れません。

 ややこしい話になってしまいました。

 今日現在われわれは生きていますが、その内全員死にます。死んだら虚無という人には、僕の話は通じませんが、無ではない、何かありそうだという人には確かに何かがあるのです。死んだらどうなるかは死んでから考えればいいのですが、生きている間にも少しは考えてもいいんじゃないでしょうか。

 死んだ人間で生きてこちらに戻ってきた者は一人もいないといいますが本当にそうでしょうか。僕はそう思いません。以前に死んだあと、しばらく霊界という死後の世界に、何10年か、何100年か、どの位いたかは知りませんが、その後こちらに戻ってくることもあると話しました。人間の本体は肉体ではなく魂だと思う人にとっては、魂には死というものがないのです。魂は肉体のある時もない時も、それ自体で存在しています。

 ですから死ぬのは肉体ですが、肉体の内部にいた魂は肉体の消滅と同時に肉体から離脱して一人旅に立ちます。この一人旅に立った魂こそが私であり、あなたなのです。だからあなたの本体は肉体ではなく魂だということです。その魂は次元を越えてどこにでも行き、どこにでも存在するのです。精子にも卵子にもなって、赤ん坊となって生まれてくるのです。この赤ん坊があなたなのです。そしてこの赤ん坊が成長して大人になって老化してまた死にます。

 だからあなたはかつて死んだことがあるのです。だけどその記憶を持っているとややこしいので消されてしまいます。死んで帰ってきた人は一人もいません、と言った人はバリバリの科学人間の唯物主義者です。こういう人は自分はこの一代限りと思っています。

 人間の輪廻転生を認めるか認めないかで、その人の生き方が変ります。輪廻転生を真から信じている人には時間や空間などという概念がありません。はっきりいってどうでもいいのです。どうでもよくない人は分別の世界で生きます。まあ僕のこんな話は元旦の寝言だと思って聞いても、耳をふさいでもどちらでもいいです。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年1月16日号掲載

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