ヒットを狙った「ドラマティック・レイン」、ミリオンの「クリスマスキャロルの頃には」 稲垣潤一が登ったスターダム
第1回【中学時代からの“叩いて歌う”スタイルは「今も難しい」 稲垣潤一が語るデビュー前夜】のつづき
地元・宮城県仙台市での「ハコバン」としての活躍がデビューにつながった稲垣潤一(71)。上京翌年の1982年1月に、「雨のリグレット」でデビュー。28歳という遅咲きだったが、トップ10入りを果たすシングルを発売するなど、すぐにスターダムに駆け上がった。ミリオンセラー達成や男女デュオでのアルバムシリーズなど、常に話題も提供し続けてきた。
(全2回の第2回)
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ラジオから流れる自分の曲にデビューを実感
デビューに向け、改めてデモテープを作った。仙台時代に歌っていた洋楽曲に、制作陣からリクエストがあったナンバーを十数曲加えた。稲垣の方向性を見定めるために作られたテープだった。
「デビューへの期待はあったんですが、『雨のリグレット』のレコーディング前の段階では浮かれた気持ちもなくて。レコーディングを終えたあと、店で自分のレコードが置いてあるかを確認し、それからラジオや有線で曲が流れるのを聴いて、ようやくデビューできたんだなと実感しましたね。あるラジオ番組で取り上げてもらえると聞いて、放送される時間帯にチューニングを合わせ待っていたこともありました」
シンガーソングライターも多い時代ということもあって、稲垣はまずシンガーとしての地位を確立した。自身の作曲した曲がアルバムに収録されたのは、1985年の「NO STRINGS」が初。作詞作曲したのは1987年発売の「Mind Note」まで待たなくてはならない。
「デビューの話をいただいた際、自作曲もあったんですが、当時の所属レコード会社の方針で、いろんな作曲家・作詞家の方の曲を歌っていこうと……」
千本ノック状態のレコーディング
デビュー曲はスマッシュヒットし、3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」でオリコンシングルチャートトップ10入りを果たした。東芝EMIからファンハウスに移籍した後、「Mind Note」前後のアルバムで4作連続1位を獲るなど、押しも押されもせぬシンガーに。レコーディングをしてツアーを始め、そこで新曲を披露する流れが毎年のように続いていた。
「デビュー曲の後、シングルヒットを狙いたいね、という話があり、筒美京平先生に曲をお願いしたのが『ドラマティック・レイン』でした(作詞は秋元康)。僕の曲はCMタイアップ曲が多いんですが、この曲は横浜ゴムさんに使っていただいた。当時のCMは見ごたえがあり、まさにミュージックビデオのような作り。その影響もあって、この曲で僕を知ったっていう方がたくさんいました。ファンハウスに移籍した後も、ディレクターとの二人三脚。いい曲を作るためにとにかく手を抜かない人でした」
5枚目のシングル「夏のクラクション」では歌入れに1週間も要した。ハコバン時代から洋楽一辺倒で、日本語の歌詞を歌うのは「それほど上手くない」と自覚していた。レコーディングスタジオに通い、歌い続ける様は「ほとんど千本ノック状態」。それだけ緻密なやり取りがディレクターとの間で交わされていたのだ。
「でもそうやって歌ったおかげで、『夏のクラクション』をふくめ、僕の財産、宝物になっています」
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