中学時代からの“叩いて歌う”スタイルは「今も難しい」 稲垣潤一が語るデビュー前夜
高卒後、「ハコバン」として地元・仙台の店と専属契約
高校卒業後、同級生が組んでいたバンドに誘われ、ドラムを務めることとなった。時は1970年代。当時、ディスコや水商売系の店と契約して演奏するバンドは「ハコバン」と呼ばれていた。「ハコ」(店)の「バンド」という意味だ。
「当時はハコバン文化の隆盛期でね。お店と専属契約をして1日に何回かの演奏をこなすという形。仙台にもそういう店がたくさんあって、40~50店ぐらいはあったのかな? 東北の他の地域から、出稼ぎじゃないけど、仙台に集まるミュージシャンもいましたね」
バンドはツインギターにベース、ドラムという形態。ベースがリードボーカルを担っていたため、稲垣が時折歌うことはあったものの、基本はドラマーだった。
一時は東京で1年ほど、別のメンバーとハコバンをやっていた時期もあった。仙台に戻ってから、最後の3年間は伝説の名店「スコッチバンク」で、毎ステージ3~4曲はボーカルを務めた。その評判を聞きつけて東京からテレビ局のスタッフがやってきた。
「カセットに吹き込んだデモテープを持ち歩いていたので、それがデビューにつながったんです。スコッチバンクでは、基本は洋楽曲のコピーが中心で、女性ボーカルとデュエットしたり、自身がボーカルを取ったりしていました」
稲垣の特徴ある声が届いたという証拠だろう。話す際には、比較的低めの声でとつとつと喋るが、歌うとなれば高さも通り方もほぼ真逆。他に類するもののない唯一無二の声と言っても過言ではない。
「以前、渡辺真知子さんとステージで共演した際にも『稲垣さんの声って特殊な声ね』と言われました。自分ではそれほど自覚していませんが、それでも喋るときと歌うときの声が違うというのは昔から言われています。特殊と言われても自分では『はてな?』という感じなんですけどね(笑)」
もちろん年齢を重ね、声も変化している。それはデビュー曲の「雨のリグレット」 から2022年に発売された「哀しみのディスタンス」を聴き比べれば一“聴”瞭然だ。 それでも「声が変わらない」と評されることはあり、シンガーとして嬉しい、これからもそう思われるように歌っていきたい、と話す。
こうして、1981年2月、デビューに向けて上京を果たした。東京は仙台に比べて暖かいはずなのに、数日前に降った雪が残っていたことが、今なお印象に残っているという。デビュー曲「雨のリグレット」のレコーディングに向けての日々がスタートした。
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デビューを間近にした稲垣。第2回【ヒットを狙った「ドラマティック・レイン」、ミリオンの「クリスマスキャロルの頃には」 稲垣潤一が登ったスターダム】では、大ヒットした「クリスマスキャロルの頃には」や、男女デュエットで話題を呼んだ「男と女」シリーズについて語っている。