「巨人・田中将大」は200勝達成なるか 過去にもいた戦力外後にジャイアンツに移籍した現役晩年の「名選手」たち
「長嶋監督の激励」に決意を新たにした
加藤と同じ86年には、日本ハム、西武などで通算169勝を挙げた高橋直樹も40歳で巨人に移籍。“紳士の球団”にあって、髭を生やした選手として話題になったが、登板4試合、0勝0敗に終わると、「19歳の清原(和博)君(西武)が4番を打つ時代だし、自分の役目は終わった感じ」と他球団のオファーを断り、巨人で現役を終えている。
高橋とともに巨人で髭をトレードマークにプレーしたのが、大洋時代に3年連続盗塁王を獲得した屋鋪要である。
横浜時代の1993年オフ、膝の故障で61試合出場にとどまった屋鋪は、高木豊ら主力級のベテラン、中堅5人とともに電撃解雇を告げられ、「ゴミ箱にゴミを捨てるみたいに」と悔しい思いを味わった。
だが、直後、巨人・長嶋茂雄監督と親しいニッポン放送の深澤弘アナウンサーから電話があり、「チョーさんが欲しがっているよ」と伝えてきた。「一応考えさせていただきます」と答えたが、「その電話があった時点で、僕は巨人に決めましたね」。
長島監督は、巨人ではご法度の髭についても「その髭ね、剃ることないよ」と理解を示した。理由については推測の域を抜けないが、長嶋監督は「屋鋪、ほかの選手見てみろよ。みんなスカート履いて野球やってるよ」とも言った。屋鋪自身は「そんな(髭を剃るとか)細かいことにとらわれてたらダメだって、言いたかったんじゃないかな」と解釈している。
翌94年4月12日の古巣・横浜戦、屋鋪は8対8の同点で迎えた9回裏、センターの守備固めに入ったが、強い風雨の大荒れの天候でボールが見えにくくなり、ローズにサヨナラ安打を許してしまう。
「自分が原因で負けた」と落ち込んでいると、その夜、長嶋監督から電話があり、「お前が捕れないなら誰も捕れないよ。明日元気に出てこいよ」と激励された。「それまではスタメンで出たい気持ちがあったんですが。それがきっかけで、どんなチャンスでも与えてくれるのであれば、プレーに徹しよう」と決意した。
同年は終盤の守備固めでの起用が多かったが、必要不可欠の脇役としてチームの日本一に貢献。「大洋・横浜では、2位と3位が1回ずつを除けばBクラス。2軍でも優勝はなかったのに、17年目で初めて日本一になることができて、野球人生で最高の年でした」と振り返っている。
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