「無我夢中でブレーキを踏み込んだ」阪神・淡路大震災の“宙づりバス”運転手 受験生の“守り神”として注目された“九死に一生”のその後

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京都の会社に着いたのは午後4時

 3人のスキー客はいずれも女性。眠っていたのか、社内はパニックになることもなく福本さんの誘導に従って、後方の非常口から“脱出”した。

「それから高速から降りる非常階段までおよそ1キロ。黙々と歩きました。途中に止まっている車には、『この先は行けへんで』と教えてあげましたよ。高速を降りてからタクシーをつかまえるまで3時間かかりました。京阪電車が動いている淀屋橋までさらに5時間。京都の会社に着いたのは午後の4時でした。途中乗った京阪電車の中で私のバスの写真が載った新聞を読んでいる人がいたのには驚きました。会社に着いて家に電話しましたが、家族もびっくり仰天。まあ、運がよかったとしか言いようがありません」(福本さん)

 こうして全世界に配信された“危機一髪の写真”の当事者は命を拾ったのである。

(「週刊新潮」1995年2月2日号より)

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受験生の“守り神”に

 以後も福本さんは多数のメディアで当時の体験を語り、さらには自身の物語が続いていることも明かしている。

 福本さんが仕事に復帰したのは、九死に一生を得た体験からなんと10日ほど後のこと。生死を共にしたバスも一部が破損しただけで、修理を経て福本さんと一緒に復帰した。それから1カ月と少しを過ぎたころ、福本さんとそのバスが運んだ修学旅行の団体に「落ちなかったバスと運転手」だと気づかれたことから、受験生の“守り神”として注目され、一時は取材が殺到した。

 以後も断続的に当時と近況を伝えるニュースが流れ、2002年にバス会社を定年退職した後は、同年の秋から京都の龍谷大平安高校野球部でバスの運転手に。同校職員に誘われての再就職で、同校が悲願のセンバツ初優勝を果たした14年の時点でも運転手を務めていた。引退は18年。足を骨折したことが理由だった。

デイリー新潮編集部

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