「無我夢中でブレーキを踏み込んだ」阪神・淡路大震災の“宙づりバス”運転手 受験生の“守り神”として注目された“九死に一生”のその後
まさかのバランスで落下を逃れた観光バス
もうもうと上がる炎と黒煙、崩落した高速道路、完全に倒壊したビルや家屋、神社……。1995年1月17日5時46分に発生したマグニチュード7.3の兵庫県南部地震。観測史上初の震度7を記録した地域を中心に、甚大な被害を生んだ災害が「阪神・淡路大震災」である。今年で発生から30年を迎えるものの、次々と報じられた、あるいは目の当たりにした被害状況に言葉を失ったあの日を、今もはっきりと覚えている人は多いだろう。
住家の被害は全壊が約10万5000棟、半壊が約14万4000棟。2005年12月22日の時点で死者は6434名、行方不明者は3名、負傷者は4万3792名にのぼり、死因の約3/4は「圧死」だった。懸命の救助作業にあたる様子や、焼野原となった場所で家族を呼ぶ生存者の姿など、心痛む写真や映像も多々残されている。
現在の被災地は復興が進み、かつての平和を取り戻したように見える。だが、被災者たちの心の一部はいまもあの時にあり、当時20歳だったお笑いグループ「安田大サーカス」の団長安田さんのように、10年以上を経て被災体験を語る心境に至った例もある。また昨年はヒットドラマ「不適切にもほどがある!」でも描かれ、当時を語るSNS投稿が増えたことも記憶に新しい。
悲惨な状況に直面した人は光を求める。当時の人々が求めた光は、奇跡的な状況で命を取り留めた人の物語だった。その最たる例が、崩れ落ちた阪神高速道路3号神戸線の上で、まさかのバランスで引っかかり、宙づりの状態で落下を逃れた観光バスだ。運転手の福本良夫さんは当時52歳。これまで多数の取材を受けているが、発生のほぼ直後に語っていた言葉はやはり生々しい。「週刊新潮」(1995年2月2日号)の誌面で振り返ってみよう(肩書き、年齢などは掲載当時のまま)。
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無我夢中でブレーキを踏み込んだ
全世界に報道された大震災の中で、最も強烈な印象を残したシーンといえば、倒壊した高速道路で観光バスが宙ぶらりんのまま踏み止まったあの光景ではないか。
まさに九死に一生、危機一髪で“地獄の淵”から生還したのが観光バス運転手の福本良夫さん(52)である。
「あの瞬間のことは忘れられません。前方がピカッとフラッシュのように光ったと思ったら、突然道路がグラグラと揺れ出したんです。ハンドルをとられるような猛烈な横揺れでした。無我夢中でブレーキを踏み込みました」
と福本さん。東京に本社を置く観光バス会社の社員で、この道26年のベテラン運転手である。
「揺れと同時に高速道の水銀灯は消え、そして縦揺れが来た。道路がぐわんぐわんと波打つような強烈なやつです。速度は60キロでしたが、車体は波打ちながら、急ブレーキでなんとか止まりましたよ。ところが“止まった”と思った瞬間に、自分のいる道路が目の前からスッと消えたんです。そして車体がガタンと下に打ちつけられた。『落ちたっ』『アカン』とさすがに目をつむりましたよ」
ピカッという光を2回見た
まさに奈落の底に落ちる瞬間である。しかし、バスは落ちなかった。
「『落ちた』と思った時、対向車線から来た乗用車がスーッと下に落ちていくのが見えたんです。でも、こっちは落ちなかった。あれっ、助かった、引っかかったんだ、と思いました。運がよかった。今振り返ってもゾッとします」
と福本さん。バスは満員のスキー客を乗せて、野沢温泉からの帰りだった。終点の三宮を前にして、乗客は3人だけになり、もう1人、交替選転手の安井義政さん(33)を入れて5人だけの車内だった。
その安井さんもいう。
「僕はあの瞬間、ピカッという光を2回見ました。きつい光でしたよ。そして何が何だかわからないような強い揺れ。もう死ぬ、と思いました。道路が落ちる瞬間、5、60メートル先を走っていた白い乗用車が裏返って屋根から落ちていくのが見えたんです。生きた心地なんてありません」
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