「吉原をおしゃれスポットに」 「べらぼう」蔦屋重三郎はスーパービジネスマンだった! 現代でも役立つ仕事術に迫る
弾圧にも屈せず
だが、それでも蔦重は屈しない。前述したように浮世絵をメインに反転攻勢だ。歌麿の美人画と写楽の役者絵でエポックを打ち立てた。
そればかりか馬琴に一九、北斎ら気鋭を積極的に登用している。馬琴と一九の初期作品の多くは耕書堂からリリースされ、まだ勝川春朗を名乗っていた北斎だって何度もオファーを受けた。
寛政7年(1795)、45歳になった蔦重は東海道を上り、伊勢松坂に本居宣長を訪ねている。
宣長は国学の泰斗、片や遊郭ガイド、滑稽な戯作が主戦場の蔦重ではミスマッチの感が拭えない。しかし、蔦重は出版物のジャンルと作者の幅を広げることで次の一手に打って出るつもりだった。幸い、会談は首尾よくいき、耕書堂に宣長のエッセイや小説が並ぶようになった。
ところが江戸に戻った蔦重は体調を崩す。医師の診立ては江戸患い(脚気)。病状はいっかな回復しない。寛政9年(1797)5月6日、時代を築いた本屋は永眠する。享年48。
蔦重の葬儀には交誼を結んだ創作者たちが参列したという。蔦重の本屋人生はこれら豪華な面々に彩られ、彼らを時代の寵児に押し上げることに費やされた。江戸のメディア王の名に恥じぬ生涯というべきだろう。
[6/6ページ]