「吉原をおしゃれスポットに」 「べらぼう」蔦屋重三郎はスーパービジネスマンだった! 現代でも役立つ仕事術に迫る

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浮世絵界のテロリスト

 写楽のバランスを無視した、アバンギャルドなタッチは町衆にとってショックだったはず。蔦重は写楽を使い、役者は理想的に描く――例えば女形は美女に仕立てるという不文律を覆してしまう。写楽の女形は男そのもののうえ、老醜まで遠慮せず絵にした。その点をピックアップすれば、蔦重は浮世絵界のテロリストといえよう。

 南畝もこの役者絵を手にして苦笑したようだ。「浮世絵類考」にこう記している。

「あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止ム」

 役者の真実を描いた写楽の実働期間はたったの10カ月。蔦重は最後まで写楽の正体を明かさなかった。このミステリアスさが、現在の写楽人気に寄与しているのは否定できまい。

 もし、蔦重がそこまで見込んでいたとしたら……したたかなビジネスマインドには舌を巻くしかない。

 ※

 蔦重が吉原をプロモーションし、黄表紙や狂歌ブームの渦中にいた1770年代半ばから80年代にかけて、政治の実権は田沼意次が握っていた。

本屋ならではの方法で反骨ぶりを発揮

 田沼は商業資本に着目して貿易促進や蝦夷地開拓、専売制など産業振興にまい進する。江戸の町は、昭和末期から平成初期のバブル経済期さながらの好景気に沸き、人々はぜいたくを享受した。

 蔦重のもとに集まった文人墨客たちは“セレブ”にほかならず、吉原でやらかした乱痴気ぶりは“パリピ”そのもの。とはいえ、蔦重は夜毎の宴席を無駄遣いとは思っておらず、バカ騒ぎから生まれる企画や発想を重宝していた節がある。

 江戸の町衆はそんな蔦重に憧憬の念を抱き、彼はますます存在感を増していく。

 だが、田沼政治は贈収賄を日常化させ“政治とカネの問題”が深刻化する。

 さらに三原山や浅間山の噴火、各地での飢饉、疫病流行があった。江戸や大坂では町民が暴徒化した打ち壊しまで起っている。

 天明6年(1786)、田沼は後見人だった10代将軍家治の死、積極財政の行き詰まり、社会不安などにより失脚。代わって松平定信が幕閣の中枢に座った。定信は質素倹約と文武奨励を徹底させる「寛政の改革」に乗り出した。

 人々は施策の急変に戸惑い反発した。蔦重はそんな世相に素早く反応し、本屋ならではの方法で反骨ぶりを発揮する。

 蔦重は春町、喜三二に京伝といった手駒を駆使し、綱紀粛正を掲げる定信政権を出版物で徹底的におちょくり、笑いのめした。

 果たして、江戸の庶民は蔦重の出版した戯作に大きな拍手を送る。

 だが、定信が彼を野放しにするわけがない。あの手この手で弾圧を加える。蔦重の主力作者だった喜三二は筆を折った。春町は死んでしまう。京伝は手鎖50日の刑の憂き目に。

 彼らの後ろ盾たる蔦重にいたっては、財産半分没収という厳罰に処せられる。さしもの蔦重も再起不能――江戸中がうわさした。

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